この作文は長女が小学校6年生の時に書いた作文です
・題名 地球の自然(プリントアウトして読んでね)
私は地球を見て思うことがある。普通は、山や川、海などを見ていると落ち着くけれど、今は、それらを見ていると少し悲しくなる。なぜかというと、山や川や海が少しずつ汚れてきているからだ。
私が、以前、海に行った時も海の水がとても汚かった。水は透明でなく茶色、海の中の土もドロドロした土やベタベタした土ばかりで、藻がたくさんあって...。 海に入る気がしなかったのを覚えている。
「これじゃあ、魚たちもくるしいだろうなぁ...。」
しかし、苦しむのは魚だけでなく、他の生き物だって同じことだ。
去年の夏の夜、家のすぐ横の川にホタルが飛んで来ていた。とてもきれいにキラキラと光っていた。ホタルはきれいな川にしか住んでいないそうだ。昼間はそんなにきれいな川だとは思わないが、夜にはホタルが光ってきれいな川だと教えてくれているようだ。そんなホタルを近所の小さな子供たちは喜んで取っている。ホタルは短い命だとも知らずに。
「採るなんてかわいそう」
私は、いつもそう思う。
私がまだ小さかった時、私もよくホタルを捕まえていた。でも、ホタルはすぐに死んでしまった。一日は生きていても、次の日には死んでいた。ホタルの命って、たった一本のろうそくのように光を失ってしまうともう終わり。ろうそくのあかりは、いつまでもついてはいられないんだなぁとかんじていた。
ホタルたちは、長生きできる人間がうらやましいと思っているのだろうか?いいや、そんなことはない。なぜなら、ホタルは決して自分の短い人生をむだにしないからだ。自分が死ぬという事が分かっていても、最後の最後まで光ろうとする。その輝きはとてもきれいだ。そんな精一杯生きているホタルを、人間は自分の楽しみだけのために捕まえたり、ホタルの住みにくい環境をつくりだしたりしている。
大昔から、人間は、長く生き延びるために川や海で魚をとったり、野や山で動物や植物をとって食べたりしてきた。また、住む家を造ったり、道具や紙を作ったりするために森や山の木を切ったりもしてきた。しかし、今では、海や川で魚を釣る必要もないし、野や山で狩をする必要もない。スーパーに行けばたいていの物は手に入る。家にある水道の蛇口をひねれば水も出るし、コンロのねじを回せば簡単に火がつく。文明や科学はすごく進み、生活も豊かになっている。しかし、文明が進んだから川や海の水が汚くなったのだろうか?それは違う。大切なのは人間の行い・進んだ文明の使い道一つなのだ。
川で遊んでいても、ゴミや洗剤を使って出たアワが流れてきたり、川岸にゴミがたくさんひっかかっていたり落ちたりえしているのをよく見かける。そんな時、私は、何でゴミを山や川に捨てるの?と不思議に思う。だって、山の自然や海や川の水があるから人間は生きているんでしょ。生活が豊かになり、簡単に食べ物や水が手に入る時代になっても、美しい自然がなければ人間は生きていけれないだろう。川や海がよごれれば、魚や貝が住めなくなり死んでいく。人間も、当然、魚や貝が食べれなくなる。野や山はよごれ、植物が無くなり、動物もいなくなってしまう。このままだと、ついに人間が滅びてしまいかねない。なのに、どうして?
工場や家庭から出る排水やゴミや煙・・・。生活が楽になった分だけ自然が汚れていく。このまま人間が滅びてしまっても、文句は言えないだろう。山のせいでもなく、海のせいでもない。人間のせいだから。自然から大きなばつが与えられるのだ。もし、このまま自然をよごし続けるのなら、人間は愚か者だ。これからは、文明や科学が発達してきた分だけ、山や川や海などの自然を大切にしないといけないだろう。
でも、近頃は、「川をきれいにしよう」 「自然を大切にしよう」と思っている人たちが増えてきているように思う。私の住んでいる吉永町でも八塔寺川の美しい自然やみんなの健康を守るために、産業廃棄物の処理問題で町民が立ち上がり、処分場建設の反対運動を行っている。
このまま、私たちみんながきれいな川、海、山の緑などを守りつづけたら、自然は前よりも美しく、きれいになり、私たちの生活を優しく見守ってくれるだろう。自然は、人間たちの行い次第で、時にはきびしく、時には優しい目で、わたしたのことを見つめ続けてくれることだろう。自然は、私たちの母であり、命でも在るのだから。
大きなことはできないけれど、今後、私もこの美しい吉永の自然を守る努力をしていきたい。
以上