2002/7/30 シゲちゃんのF1話 up! ------------------------------------------------------ ここから、各ページごとの新規情報を記載して行きます ------------------------------------------------------ 2002/7/8 スペシャルサイト オープン! 2002/7/5 ブック・レビュー(Book Review)up! 2002/7/5 ライヴ・レポート(Live Information)up! 2002/7/4 ライヴ情報(Live Information) 一部訂正 2002/7/2 ライヴ情報(Live Information) up! 2002/7/1 入会案内(Information) up! 2002/6/30 "Clube da Bossa" HomePageオープン!
<2002/7/30>
【シゲちゃんのF1話】
(第2弾)
は〜い、シゲちゃんで〜す(^O^)/
さて、みなさんのご期待にお応えしてF-1話しの第2弾の始まり始まり。…え、誰も期待してない?! (笑)
前回登場したエマーソン・フィッティパルディを尊敬し、ヨーロッパに渡りF-1で活躍したブラジル人ドライバーは数多くいますが、今回はブラジル人として2人目のワールド・チャンピオンとなったネルソン・ピケの話しです。
●
ネルソン・ピケ=Nelson Piquet
1952年8月、ブラジリア生まれ。
国会議員の父親を持ち恵まれた環境で育つ。10代後半、父親の援助でアメリカにテニス留学。しかし、そこで偶然モータースポーツと出会い、更に当時F-1で活躍し始めていたE・フィッティパルディに憧れるようになった彼は帰国後、父親の猛反対をよそに内緒でレース活動を続けた結果、ブラジル国内のカートレースでは無敵となり意気揚々と単身でモータースポーツの本場イギリスに渡る。
しかし、父親に反対されたブラジルのお坊ちゃまは誰からの援助もない孤独でビンボーな夢追う青年に。それでも自己資金でなんとか調達したマシンでF-1から3クラス下のレースに参戦。F-1ドライバーになりたい一心のピケは天性の走りで次第に頭角を現しF-3にステップアップ。そのF-3でも活動資金に苦労しつつもF-1への思いは誰より強く走りもよりアグレッシブに…
●
78年夏
/F-3でのその思いと走りがいくつかのF-1チーム関係者の目に止まり、ドイツGPでシートの空いたエンサイン・チームから電撃的に飛び級デビュー。F-3とF-1を掛け持ちで参戦。F-3では見事シリーズ・チャンピオン!! F-1最終戦カナダGPではその後ピケの運命を大きく変えることとなるブラバム・チームのシートを獲得することに。
●
79年
/正式にF-1ドライバーとなったブラバム・チームには、75・77年フェラーリ・チームで2度ワールド・チャンピオンを獲得していたニキ・ラウダ(オーストリア)が前年からエース・ドライバーとして君臨していた。ピケはここで元チャンピオンからF-1について様々なコトを伝授される。また当時このチームには奇才と唱われたエンジニアがおりマシン開発の術をゼロから修得することになった。
以下主な戦績を。
●
80年
/アメリカGPでF-1初優勝!! 早っ(‥;) この年は他にも2勝しウイリアムズ・チームと激しい戦いの末、ピケは総合2位!!
●
81年
/同じくウイリアムズとブラバムの2強チーム対決となり、前年にも増して拮抗した戦いとなりわずか1ポイント差でピケが初のワールド・チャンピオン獲得!! この流れってE・フィッティパルディとほぼ同じ!!
●
82年
/F-1はターボ・エンジンへの過渡期となりブラバムはBMWからエンジン供給を受け出場。しかし、ルノー、フェラーリといったメーカー直属チームのエンジンとの馬力差は歴然でピケはわずか1勝のみ。
●
83年
/ピケがマシン開発能力をいかんなく発揮し、ルノーとのタイトル争いは最終戦までもつれたものの2度目のワールド・チャンピオンに!! こ、これまたE・フィッティパルディと同じパターン!!!
●
84年
/最多ポールポジション回数を誇るも不運なアクシデントも重なりリタイアの連続。わずか2勝。
●
85年
/前年の不運を引きずったままチームのマンネリ化もあり1勝のみの寂しいシーズンに…
●
86年
/そろそろ移籍を…と考えていたピケに白羽の矢が。3年前にF-1復帰したホンダのエンジン供給を受けていた元ライバルチームでもあるウイリアムズからチャンピオン請負人としてオファーがあり移籍。ピケの開発能力のお陰でチームはタイトルを獲得。ピケ自身もドライバーズ・タイトル総合3位。
●
87年
/マシン開発が更に進み開幕戦からチームもピケも絶好調。しかし、好事魔多し。続く第2戦サンマリノGPの予選中、ピケのドライヴするマシンは緩やかな第1コーナー「タンブレロ」でコースアウト。200km/h以上のスピードで壁に激突し負傷。残りのシーズンは心身共にダメージを受けながらもチームメイトのN・マンセルと熾烈に争い、マンセル6勝。ピケ3勝。優勝回数ではマンセルが上回るものの、流石チャンピオン請負人!! 身体を労りながらピケは着実に2位に何度も入りポイントを重ね、リタイアの多かったマンセルを退け3度目のワールド・チャンピオンに!!! この移籍後の展開はE・フィッティパルディとは正反対ですね。
●
88年
/ウイリアムズで一仕事を全うしたピケは、ホンダ・エンジンのもう1つの供給先でもあったロータスに移籍。しかし、この頃のロータスは斜陽を迎えていてピケの力だけではどうしようもなくレースでは3位に入るのがやっとの状態。
●
89年
/ロータスはホンダとの契約も切れ、坂を転げ落ちるように没落貴族の道をまっしぐら。予選落ちの惨めな結果も。こうなると元チャンピオンも周囲からは「ピケは終わった…」と言われるように。
●
90年
/それでもなお現役を続けたいピケはベネトン・チーム(旧トールマン・チームをイタリアのアパレルメーカーのベネトンが買収)から「入賞ポイント×10万ドル」の出来高払いという契約を受け入れ移籍。きっちりとプロ根性を発揮して入賞を重ね、終盤の日本GP・オーストラリアGPでは某チャンピオン・チームの内紛をよそに連勝!! 総合3位と見事に返り咲いた。
●
91年
/前年の日本GPから同じベネトン・チームで出走していた愛弟子でブラジル人のロベルト・モレノと共にチームに残留し参戦。しかしシーズン途中でチームはR・モレノを突然解雇。代わりにチームメイトとなったのはドイツの某巨大自動車メーカーから莫大な援助を受けていた新人ドライバーのミハエル・シューマッハ。ピケはチーム運営に不信感を抱くようになり、モチベーションも下がりその新人の後塵を拝することも… シーズン終了後、再び優勝を狙えるチームのシートを探すものの残っておらず39歳で引退することに。
さて、このピケと時同じく活躍し、3度ワールド・チャンピオンになったもうひとりのブラジル人ドライバーの話しはまた次の機会に… エ〜〜、まだつづくの〜?!(爆)
■
こぼれ話し
■
◎
その1
“ピケ”という名前はレース活動を反対していた父親にバレないようにと母親方の名前でエントリーしていたのが始まりとか。本名はネルソン・ピケ・ソウト・マイヨール。
◎
その2
ドライビングも豪快なら私生活も豪快だった。短いシーズン・オフには正式な奥さんの他にも数人の女性と仲良く一緒にモナコ沖のクルーザーで過ごしていたとか。で、このクルーザーというのがハンパな船じゃない。何と自家用ヘリポート付き!! スゴイ!! 男前!!
◎
その3
N・ピケもE・フィッティパルディと同じくF-1引退後、北米へ渡りインディ500に挑戦。しかし予選タイムアタック中に300km/h近いスピードで壁に激突。両足を負傷しレースから引退。現在はブラジリアに戻り、広大なブラジルの大地を駆け巡るトラックを人工衛星で監視するGPS情報サービス会社の社長をやっているとか。通勤は…勿論、自家用ヘリ!! ヒェ〜〜〜!! (>_<)
Copyright 2002
Clube da bossa
All Rights Reserved.