第14回心の健康会議

メインテーマ 虐待の心理と支援

開会挨拶: 大塚 義孝 専務理事(木田会頭代理)

今日1000名収容できる大ホールに1800名の臨床心理士の参加希望があった。1100名まで、参加許可を出したが、700名の臨床心理士には申し訳ないが、満員のため参加できないとの連絡をした。(そういう意味では、以下のメモは参加できなかった700人の臨床心理士に捧げたい:筆者;追記、その後「臨床心理士第15巻第2号;平成16年7月31日発行」で全文掲載されました。)

現在、10,083名の臨床心理士がいたが、今年の合格者1450名を加えて、約12,000名になっている。

今年のメインテーマは、「虐待の心理と支援」だが、最近幼児虐待での死亡事件等新聞にいくつも出ている。

PART 1

基調講演:「私達のマゾヒズム(自虐性)について」 

北山修[キタヤマオサム]1946年淡路島生まれ。京都府立医科大学卒業。ロンドンのモーズレイ病院およびロンドン大学精神医学研究所で研修。北山医院(現南青山心理相談室)院長を経て、現在、九州大学大学院人間環境学研究院・医学研究院教授。精神分析医、臨床心理士。「幻滅論」等の著作。

勿論、フォーククルセーダーズのメンバーで、「帰ってきたヨッパライ」を大ヒットさせており、ビートルズファンで「ビートルズ」という講談社文庫を出していることも有名。

茶のスーツ・ノーネクタイで白髪の紳士風の講演者が登場。いよいよ開演

 精神分析的な視点からのマゾヒズムについて語りたい。

 マゾヒズムというと、マゾッホから付いた性的快楽を求めるという意味もあるので、日本語訳としては自虐性という方が適切と考える。

 マゾヒズムとは、自分が傷つくのを好む。治りたくない、というのを精神分析的に考えていきたい。

私の最近の患者は、医者や看護師、臨床心理士等治療に携わる人がメインになっている。

自分を苛んで生き甲斐にしているような治療者がいる。そういうことから、私達の自虐性について精神分析的に考えていきたい。

ここで、精神分析的な考え方をおさらいしておきたい。

第一に、無意識を認める。自虐性の中に、無意識に加害性を認めるということである。マゾヒズムは、サディズムの裏返しともいえる。別の意識も抑圧されてあると考える。

第二に、言葉にする。言葉にすることでカタルシス、洞察に結びつく。

日本人は無口というのはいいかげんに止めて欲しい。日本人は人前では無口であるが、言いたい事が言えない状態なのである。安心して話せる状況ではむしろ多弁といってもいい位である。

私は、知能指数が上がると共感性が下がると思ってるが(笑)、医学部の学生にそう感じたが、最近は臨床心理を学ぶ学生もそんな傾向を感じる。

自分の人生を物語にする。物語化、再構成が必要と思う。人生の早期に書き込まれた台本を相手を替えて、ずっと演じ続け繰り返してしまう。

第三に、その人生の早期に書き込まれた台本、すなわち過去にひきずっているものを読む。その台本に気づくことで、台本を書き換えることができることができるのではないかと考える。過去に注目すると言う点から、発達心理学と共に精神分析は発展してきた(マーラー,エリクソン等)。

人類のひきずっている過去の遺産を読み込ませるかもしれないということで、精神分析では、神話や昔話を使う。

さて、ここで自虐的世話役の特徴を3つ挙げたい。
@    人の世話をするのが好き。A自分のことはかえりみないB自分を傷つける癖がある。

代表的な、昔話として、「夕鶴」がある。

つうという美女が、羽を抜いて着物を作るが、鶴の姿で着物を織っている姿を見られて去る。という物語である。同じような物語に蛇女房というのがあるが、片目を抜いて差し出す、もう一つの目も差し出してしまうという物語だが、海外で蛇女房の話をすると目を腫らして聴いている聴衆もいる。

治療者に患者のこころの病が伝染することがある。しかし、治療者が病気にかかってもそれを受け入れようとしない。

想いが乗り移るといえば、ラストサムライという映画で、トム・クルーズが西洋人にも関わらず、渡辺謙の侍魂が乗り移る。渡辺謙は、Everything Is Perfectと言って死んでいく。感動的ない生き方であり、日本人の美意識ともいえる。

患者の思いが乗り移るという逆転移の状態は発病した状態であり、その状態を克服することで患者に役立つことができる。

治療者の患者への同一化について述べる。

第一に共感がある。共感には被害者に同一化する鏡像化と、加害者に同一化する場合がある。そして、患者の物語に参加してしまう、「劇化」ということもある。劇化とは、治療者の逆転移の行動化とも言える。そのような状態になって時、無自覚のままだと、発病して自分が患者になってしまう。

そうならないためには、まず患者に逆転移を起こしていることに自覚することが大切。被害者の話を聞くことで、治療者も傷ついていると言える。

治療を「起承転結」で表すと、「起」で患者の被害的な話に共感する、「承」で治療者の古傷がうずく、「転」で治療者が古傷を克服し患者に接する、「結」で患者が治る。

自分の自虐性のため、自分が患者にならないためにはどうしたらよいか。

第一に治療の構造化をする。

一生懸命になりすぎると、治療者が自己犠牲的になってしまう。始末の悪いことに自己犠牲的になることに自分で酔いしれている場合もある。時々、境界例の治療に燃えている若い治療者が消耗してバーンアウトしてしまうのを見る。

そうならないためには、治療構造を守る。治療する時間と場所を守ることが必要である。患者から、「先生は、冷たい、水くさい」と言われても、その患者の怒りを引き受ける。消耗してバーンアウトしないように、治療構造を守ることが必要になる。

第二に、スーパービジョン等第三者の視点を受け入れる。

治らないことを生き甲斐にしているような人がいるが、治療者に怒りを向けられるようになると、展開がある。

ここで、医療/医学における新しい概念であるナラティブ・ベイスト・メディスン(NBM)に基づいて、スライドを使用して神話を見なおしていきたい。

NBMは「物語り」あるいは「語り」という観点から、医療/医学の全ての分野を見直そうというもので、 医学と他の専門分野、特に人間科学(Human Sciences)を構成する諸科学との幅広い学際的な交流を特徴としている。)

マックのノートブックを使用し、スライドで以下の説明

日本国誕生の神話のなかで、黄泉の国を覗いたら、見られたと醜い女が怒って追いかけてくるという話があるが、見られて怒りをあらわにするのはこの物語くらいで、他は「見るな禁止」を破ると、そして別れ話になるというパターンである。

日本人祖先からの台本として、夕鶴のように、動物である所、傷ついているところ、穢れを見られた人が去るというものが見られる。夕鶴という物語ができたのは、昔出産時に亡くなった母が多かったのではないか、とも思われる。自分の羽を抜いて他者の犠牲になるのは、海外ではキリストを連想する人もいるようだ。

すなわち、自己犠牲は神の領域(キリスト)とも言え、人々にインパクトを与える。

タツノコタロウは、龍が目を差し出すのだが、母の子供への献身の大切さをあらわしている様だ。母の献身から、阿闇世コンプレックスを連想するが、阿闇世コンプレックスの提唱者の古沢平作氏が目が不自由であったことも思い出す。

海外では、カエルが王子様やピノキオのような動物が人間になる物語はあるが、日本では動物であったのが分かると去るという物語ばかりである。

結論としては、去っていかない「夕鶴」が結末を変える。

つうが去らないことである。そのことにより、よひょうに償いの機会を与えることができる。動物であるということが分かっても去らずに居続けることにより結末が変わる。

この講演では質問を受けないが、質問を受けるといつも男性から、「先生、なぜ私の夕鶴(女房)は、いつまでたっても去っていかないのでしょう?」と質問が出ますね(笑)。

午後は、シンポジウム

司会 東山 弘子(仏教大学大学院教授・臨床心理士)

シンポジスト 亀口 憲治(東京大学大学院教授・臨床心理士)

       三沢 直子(明治大学教授・臨床心理士)

       柏女 霊峰(淑徳大学教授・臨床心理士)
       有井 悦子(有井小児病院院長・医師)