カール・ランサム・ロジャースは、戦後の日本のカウンセリングに最も影響を与えた心理学者であろう。それは、非指示的カウンセリング(後の来談者中心法)であり、それまで相談とはお説教であり、説得であった日本の相談の概念を180度転換したという画期的な意義を持つものである。

クライエントに耳を傾け、理解しそれを伝えるという共感的傾聴が複雑で謎に満ちた人間の心理作用への最も曇りのない窓となると考えた。

また、観察からごく低次元の推論を立て仮説を作っていった。それは、ロジャースによると、フロイト派のように高度の推論を立て抽象的で実証の難しい理論を作り上げることもできたが、大地に根ざした農学を専攻した経験からそうはしなかったと述べている。

ロジャースは、専門家として重要な2つの苦闘に取り組んできた。

一つは精神医学との闘いである。

非常に良い成績を上げたロジャースたちの児童研究部門が1939年にニューヨーク州のロチェスター相談センターとして新しく独立することになった時、ロジャースの指導的役割をやめさせ精神科医に交代させるための精力的運動が陰に陽に行なわれた。臨床心理士は、精神衛生活動で管理職の責任を持つべきではない、特に精神科医がいるときには心理士に責任をもたせるべきではないという人々との議論であった。児童研究所では、何年もの間嘱託の精神科医を雇っていたが、精神科医達は心理士が精神科医を雇うなど論外だという決定を行なった。ロジャースは良い仕事をしてきたという自負があり、それを続けたいと考えていため死活問題として論争し、結果として当時のその理事会はロジャースの力になる方向に論争を持っていった。

その後、ロジャースが1945年に赴任したシカゴ大学で闘いはもっと激しく再現された。

短い任期で交代していく精神医学部長は誰一人として駆け出しのカウンセリング・センターと協力しようとはしなかった。ついにある精神医学部長が大学の理事会にカウンセリング・センターは免許なしに医行為(つまり心理療法)を行なっているから閉鎖するようにと要求を出した。ロジャースは自分が見出してきたあらゆる証拠を用いて痛烈な反撃を開始した。その当時の学長は公平な判断をする人で、精神医学部にたいしてその要求を取り下げるように提言し、精神医学部も承諾した。

そして、1957年にウィスコンシン大学に赴任して心理学と精神医学を結び付け合せる任務についたことについてロジャースは、それまでの闘いに対する喜ばしい解決と述べている。ロジャースは心理学者と精神医学者からなる研究集団を形成し、2つの専門領域を離れたままにした法的・制度的争いを徐々に取り除いていった。

以上ロジャースの著作からやや長い引用をしたのは、日本の臨床心理士の資格が国家資格に向けて活動されている最中であり、まだ結論が出ていない日本の現状とアメリカとの比較のためである。

ロジャースの闘いのもう一つは、行動主義的心理学との闘いである。

1956年のロジャースVsスキナー論争はアメリカ心理学の世界において最も版を重ねた書物であるそうだ。

行動主義と人間中心主義の基本的相違は哲学的見方にあるとロジャースは考えている。

行動主義は環境が個人の行動を決定するもので、個人の行動は断ち切ることのできない原因と結果の連鎖であると言う。ロジャースは人間はある程度まで自己を彫刻することができ、自己理解の程度こそが個人の行動を予測する最も重要な要因と考えている。

これは哲学的見方の基本的相違であり、すぐに結論の出る問題ではなかったようである。

現在、ロジャースの共感的傾聴は、どのカウンセリング技法でも共通する大切なこととして考えられている。そして、人間中心アプローチ、エンカウンターグループ、フォーカシングが、ロジャースを受け継ぐ現在の流れとして考えられる。