岡山 細胞検査士会 Home Page    ww1.tiki.ne.jp/~k_ozeki/index.html

 HOME


  

藤田 勝  小原 明子

発行責任者

前   口  上
 
 リレー・他個紹介
 コンピュータ・ワンダーランド
 まとめさせていただきます
平成10年度岡山細胞検査士会ワークショップ
 細胞検査士会だより
あなたと私の情報通信
 驚異の15kgダイエット
(三宅康之・日本臨床細胞学会技師賞受賞《記念特別寄稿》)
 大  講  釈
ここまで言うか?!の新連載
飲み方に関する考察
グラスに関する考察
体作りに関する考察
お酌に関する考察
 ちょっと読んでみませんか
 うちの本棚
    バックナンバー PACK ON No.6

発行 岡山細胞検査士会

発行日;平成11年7月3日

 

PACK ONに関するお問い合わせはこちらまで

総合病院岡山協立病院・病理部 藤田 勝

E-mail : mfujita@mb.okaky.or.jp

99/10/20 00:39:21 更新


 

TOP           HOME

前口上

 

 わたしにとってできれば避けて通りたい言葉、それは「折角だから」である。「折角だから」−−−この一言にのせられて、いったい幾度大変な目にあったことだろうか。もちろん全部が全部、悪いことばかりとは限らないが、たいていの場合「折角だから」に促されて動くとろくなことはない。なぜなら、「折角だから」は、物理的にも精神的にもいろいろな意味で無理を強いるからである。

 

▼どうしたものか、女性の買い物には時間がかかる。いや、ここで「女性」と大雑把なくくり方をしてしまっては、「女性蔑視的発言である」としかるべき関係筋から抗議を受けることも考えられるので、「わたしの身近にいる女性に限っては」と補足させていただこう。ま、とにかく長いのである。原因はいくつか考えられるが、その中の一つを「折角だから症候群」と名付けたい。

 

▼たとえばわたしが買い物に行く場合、当然のことだがわたしには買いたい、あるいは買う必要のあるものが存在している。そのためにどこへ行けば購入できるかを考え、そこに出向いて購入し、帰途につく。行き帰りに費やされる時間は別として、買い物に要する時間はせいぜい三十分もあれば充分だろう。以上で、わたしの買い物は完結する。これが男の買い物である(たぶん)。

 

▼これに対して女性の買い物は(わたしの身近にいる女性に限って言えば、です。念のため)、まったく趣を異にしている。まず、買いたい、あるいは買う必要のあるものが存在しなくても買い物が成立する。不思議である。「買わなきゃいけないものがないんだったら、買い物なんか行かなくてもいいのに」と思うが、どうも女性にとっての買い物は、男のそれとはまったく別の次元に存在するものらしい。いわば、買いたいものを探すための買い物。これは通販カタログを広げ、「何買おうかな〜」と眺めている状況に近い。もちろん女性の買い物のすべてが、目的を持たない買い物というわけではない。ただ、怖いのはひとまず目的とするものを買い終ってからの展開である。ここで満を持して登場するのが、伝家の宝刀「折角だから」だ。

 

▼先日、妻と二人で出産の内祝い品を買いに行った。近場で済まそうかとも考えたが、折角だから岡山市内の某大手デパートまで、片道一時間をかけて出向いた。品物を選定するために、折角だからといろいろな売り場を延々歩き回り、どうにか内祝い方面に決着をつけた後、折角だからマタニティ−関係の売り場に回って(出産後は出たところを引っ込めるためにいろいろ必要であるらしい…)、さらに折角だから子供服売り場へと足を運び、折角だから母の日のプレゼントも買いに走った。昼食も摂らずにデパート内を歩き回ること六時間。首うなだれて駐車場に向かいながら、頭はぼーっとするわ目はしょぼしょぼしてくるわ、もはや「体力の限界、気力もなくなり引退を決意しました」という心境であった。もしもしょっちゅうこんなことをやらなければならないとしたら(わたし的には年一回程度であったとしても)、これはもう間違いなく一種の修業である。折角だから、荒行の一つに加えてみてはどうかと思う。


リレー・他個紹介

TOP           HOME

川崎医大附属病院・病院病理部

岩知道伸久さん

 奴は、悪いやつです。思い起こせば大学時代。私はもと、奴の一年先輩でした。それが何かの拍子で同級生になったときのことです、奴のいじめが始まったのは…。春が終り夏がもうすぐそこまできた穏やかな日のことでした。数人で奴の車に便乗し、蒜山に行った帰り道、奴はこっそりエンジンを切り、エンジントラブルを装って、私に「おまえ、降りて車を押せ!」と言うのです。数十キロ、いやそ
れ以上かもしれません。私は泣きながら押しました。それからまた、こんなこともありま…、いや、そのくらいにしておこう、またいじめられる。 愚痴はそれぐらいにしておきましょう。彼は、本当は優しくて面倒見がよく、とても勉強家な青年です。分からないことや知りたいことなどがあるとき、電話するといつも優しく教えてくれます。そんな可愛い岩知道クンを皆様よろしくお願いいたします。P.S.彼は、釣りとパソコンと、とくに女が大好きです。皆さん誘ってあげてください。                           by梶谷則博

本人のコメント

 僕が梶谷さんをいじめるだなんて滅相もない。なんなら、本当のことを書こうか?。まあ、お互いに真実を書けば、お互いの立場がやばくなりそうなのでやめときましょう(笑)。それはさておき、後半では過分なお褒めの言葉をいただき、ありがとうございます。細胞検査士会に入ったばっかりで、右も左も分からない状態ですが、今後ともご指導のほどよろしくお願いします。

 

川崎医大附属病院・病院病理部

三宅康之さん

 蛸紹介じゃなかった、他個紹介ということなので、超有名人でみなさんご存じだとは思いますが、川崎医大附属病院の、いや、岡山のエース、三宅康之さんを紹介します。 三宅さんは、川崎医大附属病院・病院病理部の主任であり、細胞研究班の班長や川崎医療短期大学同窓会の理事をはじめ、多くの肩書きを持っておられるすごい人です。また、かつて(今回も:編集部注)この会報にも非常に素晴らしい文章を書かれた文才の持ち主であり、バイタリティーに溢れ、何にでも興味を持ち積極的に取り組む方です。

 三宅さんのすごさを実証する逸話があります。数年前の話ですが、三宅さんの得意とする肉眼標本製作の研修にチタールさんというインドの人が来られました。この方、日本語がまったく話せません。英語は話せるのですが、インド訛りが激しくて、ちょっとやそっとでは理解不能です。こういう場合、普通はお手上げになるものですが三宅さんは違いました。チタールさんに英和の辞書を渡し、一方、三宅さんは和英の辞書を持ち、お互いに単語を指差しながら身振り手振りで会話を始めたのです。筆談ならぬ辞書談です。しかも、辞書を指差しては「This is my friend 」という軽いジャブのようなギャグさえ織り混ぜる余裕を見せ、二週間の研修を無事に乗りきられました(もちろん辞書談だけでなく、い
わゆる英語での会話もされていました)。 英語の論文なども難無く読まれる三宅さんですが、英語に関しては実は弱点を持っています。それはカタカナ英語に弱いということです。ある日、三宅さんが
僕にこう言われました。「いわち、ドロップしようや!」。〈ドロップ?、ああ、飴のことか。三宅さん、喉でも痛いんじゃな〉と思って、冷蔵庫に保管している僕の大事なのど飴−−この僕の体型を維持するには、のど飴は欠かせません(自爆)−−を出して渡すと、「何をやっとんじゃー、ドロップじゃ言うとるじゃろがー」とある方向を指差します。そこにはコーヒーメーカーが…。そうです、「ドリップしよう」と本人は言いたかったのです。

 

 このほかにも『ディスポカップ』のことを『ディスコカップ』、『スチロール棒ビン』のことを『スチール棒ビン』、『スチール標本ケース』のことを『スチロール標本ケース』と、数え上げればきりがありません。 三宅さんほどのすごい人になれば、そばに近寄り難くなってしまうのが普通でしょうから、まわりの人を安心させるためにわざとやっているに違いないと思います。絶対そうです。そう思っていいんですよね、三宅さん。

                            by岩知道伸久

本人のコメント

 インドのチタールが研修に来られた時には、本当に困りました。あれでますます英語が嫌いになりました。日本にいて英語をしゃべる夢を見たのは、後にも先にもこの時だけです。皆さん、研修に行くときにはその国、その地方の言葉をしゃべれるようになってから行きましょう。みんな、そう思うじゃろう。

 


コンピュータ・ワンダーランド

TOP           HOME

 ノストラダムスの予言の年、世紀末をいかがお過ごしでしょうか。こんにちわ。自称パソコンオタクのKです。どきどきしていた二回目の原稿依頼が来ましたので、晴れて「連載」と銘打って、皆さんとコンピュータについて浅く考えていきたいと思います。 前回、「ご質問があれば…」と書いたところ、編集部に山のような三通の質問が来ましたので、まずはそれにお答えしたいと思います。

 

Q1:コンピュータとコンピューター、正しいのはどちら?

A:どちらも正しいが、コンピュータとしたほうが「ー」のキーが痛まない。

  第一問は、正確さへの探求心が旺盛であることを伺わせる質問であった。おそらくこの読者は、夜も眠れないほど悩んでいたであろうことが感じ取れた。

 

Q2:二〇〇〇年問題が騒がれているが、西暦一九九九年十二月三十一日二十三時
五十九分五十九秒の次の瞬間はどうなるのか。

A:正月になる。
  第二問は、世相を反映した鋭い質問であったと思う。時代の流れを適格に捕らえており、賞賛に値する。

 

Q3:MAC(マッキントッシュ)とWINDOWS、生き残れるのはどちら?

A:生命体でないものは、死ぬことはない。

  第三問は、生命の神秘に迫る「さすが医学関係」とうなってしまうような質問であった。なみなみならぬ知識の奥深さが感じ取れた(ような気がする)。

 

 質問は今後も受け付けておりますので、遠慮なくお寄せください。懇切丁寧にお答えします。
 *注・紙面の都合で回答の一部を割愛させていただく場合があります。


オタク的コラム

 

 質問にもあったように、巷では二〇〇〇年問題が騒がれています。一説によれば、空が降ってくるとか、人類が滅亡するとか、何やら物騒なうわさもあるようです。いったい二〇〇〇年問題とは何なのでしょうか。ここはひとつ、コンピュータの歴史を振り返りながら考えてみましょう。 昔々のその昔、マンモスがこのあたりを歩き回っていた頃までさかのぼってしまった人は、少し戻ってください。そう、そのあたりです。パソコンがまだマイコン(My Computer)と呼ばれていたくらい昔では、コンピュータにはまだ貧弱なメモリーがあるだけでした。当然、プログラムを作るときも、メモリーをできるだけ小さくする必要があったわけです。そのため、日付も西暦の四桁ではなく下二桁を使っていました。苦肉の策ではありますが、当時ではごく一般的なことだったのです(もちろん今でもこの方法を使っているソフトはあります)。皆さんのまわりをみても、コンピュータに限らず検体番号であるとか賞味期限などに、この西暦下二桁表記を見ることがあると思います。なぜこれが問題になるのでしょうか。 賞味期限を例に取ってみましょう。目の前にあるあんパン(私は粒あんが好きです)に賞味期限が『00/01/04』と書かれていたとすると、西暦二〇〇〇年を越えたときには、二〇〇〇年一月四日なのか一九〇〇年一月四日なのかまったく区別がつきません。もしも賞味期限が一九〇〇年一月四日のあんパンだったとしたら、賞味後どんなことになるか想像するだけでも恐ろしいことです。お腹の弱い私はきっと数日間悩んだ末に、小豆の形態が円形から類円形で核小体は目立たずクロマチンの増量もないことから、おそらく賞味しても大丈夫であることに気づくと思いますが、万が一これが『こしあん』だったときには…(絶句)。もはや修業を積んだ形態学者(スクリーナーを含む)以外、生き残ることはできないでしょう。 これに対してコンピュータは、頑固なまでに機械的に(当たり前か)、数字の大小で判断しようとします。そのために、マイナスの利子が一〇〇年分も付いた預金通帳ができたり、二〇〇〇年を越えての予約や注文ができなくなったりするのです。一説によれば、五年以上先を見越して飛行機の部品注文を行っている航空業界で、注文ができなくなってしまったことに気づいたことが、そもそものことの始まりと言われています。 このようないわゆる二〇〇〇年問題に対しては、プログラムを書き直すことで
対処できるのですが、書き換えできないプログラム・チップの中に誤ったプログラムが存在した場合には修正が困難で、誤作動は避けられないことになります。

 

 皆さんも今度の正月には、炊飯器やビデオの予約に十分注意してください。おっと、しかし安心してください。それまでにはノストラダムスの大予言で人類は滅亡しているはずですから(アア、ヨカッタ!?)。


TOP           HOME

平成10年度・岡山細胞検査士会ワークショップ

                 
 岡山細胞検査士会・平成一〇年度ワークショップが、平成一〇年五月二十四日をかわきりに計七回、川崎医科大学附属病院・病院病理部を会場として開催された。平成一〇年度のテーマは、『肺癌の細胞診〜早期肺門部肺癌を中心に〜』ということで、この分野にこの人あり(!)と全国的にも有名な、岡山県健康づくり財団の白神厚さん、浄風会河本病院の水野裕子さんを中心に準備が進められ、両施設の貴重な症例を鏡検することができた。

プロの着眼点《白神編》 

  大型の変性膨化細胞。二核となったり、核・細胞質比が大きくなったりする。

早期癌確定者の過去の標本を見直すと、そのほとんどに出現している。

 

婦人科でいう、いわゆる表層型の異型細胞。レモンイエローで、はためくような異常な菲薄化や辺縁の毛羽立ちが特徴的。

 

 小型核濃縮細胞。胞体が厚く、濃縮状でありながらも核が大きさを保ち、核型不整が認められる。

プロの着眼点《水野編》 

立体的な核型不整。フォーカスを上下して核の切れ込みなどが立体的であれば、より強く悪性を疑うべき。

 

 

経時的な細胞所見の変化に注目。とくに異型細胞の大きさの変化(大型化)と集塊化、細胞所見の多様化が重要。そのためには好中球程度の大きさの異型細胞から目をつけて追跡する必要がある。

 

 

受講者の声 (岡山市 M代)

 ワークショップは内容が充実しており、毎回欠かさず参加しています。 今回のテーマは肺癌の細胞診。日常的に鏡検している検体でしたので、楽しみにしていました。ルチンでは、1日に1、2検体の喀痰標本をわりと気楽に見ていたのですが、ワークショップでは小さなところが気になり、チェックをたくさん入れてしまいました。

 講師の畠さんより、1998年WHOの分類の説明をしていただき、英語に混乱をきたしながらも、重要ポイントが抜粋されていたおかげで、勉強する気力が湧いてきました。やはり、参加して良かったと思いました。 今回のテキストはカラーコピーが入っており、昨年以上の意気込みが感じられました。今回、都合で参加できなかった方、参加しなかった方、次回テーマは体腔液ということですので、ぜひ参加してみてください。私も腺癌、中皮腫のあたりをしっかり勉強したいと思っております。

 


日本臨床細胞学会・技師賞受賞記念《特別寄稿》

脂肪よ、さらば! いつ来る!?、リバウンド!!

  独占手記・驚異の15kgダイエット

『川崎医大の胃袋』改め『中庄のMr.ダイエット』 三宅康之

 

TOP           HOME

 [一年前] まさか、と思われるかもしれないが、かつての体重八十一キログラム(じつは八十一キログラムを越えた時点から恐ろしくて体重計に乗っていない…)が、現在六十六キログラム。なんと十五キログラムのダイエットに成功したのである。考えようによっては、太りしろがあったからこれだけやせることができた、とも言えるだろう。「体、軽くなったんじゃないの?」とよく聞かれるけれど、自分自身ではあまり感じてないというか、よくわからないというのが実感である。ただ、ウエストが一〇センチメートルほど細くなったおかげで、今まではいていたズボンが合わなくて困っている。新しいのを買おうかとも思ったが、「また太るんだから無駄な買い物はやめたら」と妻に言われ、そりゃもっともだと買うのをやめた。 二〇歳になった時点で、たばこはきっぱりやめることができた。ただ、食べる方は人の三倍、酒も食事同様に人の三倍は飲んでいた。宴会では、『もとをとる』というよりも『もと以上をとる』男として恐れられ、鍋料理の席では同じグループになるのを嫌がられる存在であった。甘いものはあまり好きではなかったので間食はしていなかったが、揚げ物が大好きで、夕食を全部食べてから油っこいつまみとともに酒を飲む毎日。どう考えても、太るには十分なカロリー摂取だった。しかも歳とともに運動をしなくなり、その反面宴会は増え、やせる要素はまったくなくなって、ひたすら肥満への道をまっしぐら。こんな生活では健康でいられるわけがない。ついに糖尿病と診断され、私のダイエットが始まった。 まず、食事は一日二〇〇〇キロカロリーに落とすようにと指導され、栄養指導も受けた。とはいっても、今まで人の三倍食べて膨らんだ胃が急に小さくなるわけはない。やむなく野菜でおなかを膨らませることにし、大量の野菜サラダをノンオイルのドレッシングで食べ、油ものを減らした。妻に、「夕食はサラダだけでいいよ」と言うと、「そんな極端なことは体にいいわけがないし、長続きしない。バランスが大切なんだから」と言われ、とにかく出された食事だけを食べるということにした。当然ながら、酒は当分の間休む(酒だけはやめるわけにはいかない)ことにした。毎日体育館かどこかで運動すればよかったが、帰る時間が不定期なのと、わざわざ出かけていって運動するのは性格上長続きしないことが以前から実証済みであったので、自宅から病院までの約三キロメートルを歩くことにした。これなら時間に左右されることはない。当然、歩いて行けば歩いて帰るしかないわけで、往復六キロメートルのウォーキングを毎日続けることができた。食事も、毎日粗食では飽きるので、定期的に豪華な食事(世間の人から見ると粗食かもしれない)を取り入れた。おかげでダイエットにも成功し、健康を取り戻すことができたのである。 何はともあれ最も大切で最も困難なことは、『維持すること』であろう。何でも極端はよくない。若干の我慢と若干の努力によって健康は維持できるのである。健康の大切さと妻のありがたさをひしひしと感じながら、来年には新しいズボンを堂々と買ってもらえるよう、健康(体重)を維持していきたいと思っている。[そして、今…] 十五キログラムのダイエットに成功してからはや一年。血糖値は一〇〇前後とすこぶる順調で、お酒の量も増える一方である。現在、一年前の「新しいズボンを買う必要はない」と言った妻の予言どおりの状況にあることが、われながら情けないかぎりだ。いずれにしろ、やせるためには食べないことが一番であるということが、またまた実証されたのであった。

 

 

三宅康之・ダイエット格言集


   

 

三宅 康之 E-MAIL ;yasuyuki@med.kawasaki-m.ac.jp 


 第1回『超個人的麦酒論』

     TOP           HOME

  ビールの美味しい季節になった。ただ座っているだけで汗が頬をつたう灼熱の夏−−−。こんな日には、何はともあれビールだ。全身に浴びるようにビールを飲みたい。失われた水分をすべてビールで補いたい。 『大講釈』第一回では、これまでビールに関してしばしば語られてきたウンチクはいっさい無視し、わたしが個人的に感じてきた『ビールの飲み方』について、おもいっきり講釈をたれてみたい。

飲み方に関する考察

 

 前々から、わたしがどうしても理解できないことのひとつに、『缶ビールの飲み方』がある。 この時期は、ビールのCMも花盛り。ブラウン管の中では、昼も夜も誰かが缶ビールをグビグビあおり、「ク〜ッ、この瞬間がたまらない〜」なんてやっている。もちろんこれは実生活でもよく見られる光景だろう。 わたしがどうしても理解できないのは、『缶から直接飲む』という、この飲み方である。あんな飲み方をして、ほんとにビールがうまいのだろうか。少なくともわたしの経験では、缶ビールを缶から直接飲んでうまいと思ったことは一度もないと断言できる。わたし自身も、缶から直接飲むことがないわけではないが、三五〇・缶の半分も飲むと持て余すのが常だ。なんだか泡ばっかり飲み込んでいるようで全然うまくないのである。 では、どうしたら缶ビールを美味しく味わうことができるのだろうか。

 

 答えは簡単、グラスで飲めばよい。『ビールはグラスで飲む』、これがビールを美味しく味わうための大原則である。缶から直接飲むビールとグラスで飲むビールとでは味わいが違う。これはもう、断じて違う。ついでに言えば、コーラ、サイダーをはじめとして、いわゆる発泡系飲料すべてに通じる大原則と言ってもよい。真のビール好きなら、いついかなるときでも美味しくビールを味わえるよう、常に専用のグラス(いわゆるマイグラス)を持ち歩くべきである。

 

 缶から直接飲むビールがまずいのは、『口腔内発泡度』が高いからである(グラフ1)。さらに、ビールを飲むことによって生じる腹の膨れ具合を示す指標『腹部膨満度』は、口腔内発泡度と密接な相関があり、腹部膨満度の上昇に伴ってさらに口腔内発泡度が増すという悪循環を生じることになる。残念ながら筆者は、この相関関係を裏付けるだけの客観的な数値データを持っていないため、その正確な有意性に関しては諸家の今後の研究を待ちたいと思う。

 

グラスに関する考察

 ビールはグラスで飲まなければうまくない。そこで、次に考えるべきことは『どんなグラスを使うか』ということである。ビールを飲むためのグラスとして代表的と思われるものを図に示した(図1)。ここではそれぞれのグラスの特徴について、順に検証していきたい。

 @は、ひと口でクイッと飲める程度の小グラスである。このグラスは、寿司屋のカウンターによく似合う。ちなみにここでいう寿司屋とは、回らない寿司屋のことである。 ところで、このての小グラスをご丁寧に冷凍庫で冷やして出す店があるが、これはやめていただきたい。問題なのは、グラス内面の結露によって泡立ちが抑えられることだ。少なくとも最初のビールが注がれるまでは、グラス内面が完全な乾燥状態であってほしい。できることなら、ビール一杯ごとに新たな乾いたグラスを出してほしいとさえ思う。

 

 Aは、居酒屋でビールを注文すると出されるグラスである。下町の食堂などでも自動給水機の横に置いてあるような、グラスというよりもコップといったほうがピッタリくるグラス。屋台でおでんと一緒に日本酒を注文すると出てくるのもこのグラスだ。このグラスこそ、かつて日本国内で最も普及してきたグラスといっても過言ではない。水、お茶、ビール、日本酒をはじめ、ウイスキーのロックから焼酎のお湯割りまで、すべてに対応できる、まさにオールラウンドプレーヤーのグラスなのであった。

 ただながめているだけでフッと気持ちが軽くなり、酔っ払いのグチのひとつも聞いてくれそうな度量の大きさを感じさせる、そんな気のおけないグラス。以前にはビールをケース買いするとおまけに二、三個付いてきたりしたが、最近はなんだかしゃれたデザインのグラスにとってかわられ、ぱったりとみかけなくなった。まことに寂しい限りである。

 

Bは、まあ、どこにでもあるグラスである。家庭でビールを飲むときには、たいていこのてのグラスが使われる。とりあえず可も不可もなし、といったところだ。 

 

Cは、ロング・グラスである。このグラスは、単純に容器として見たときいくつかの欠点を持っている。まず第一の問題は、その安定性だ。上部にいくほど内容積が増すため、ちょっとした不注意でバランスを失って倒れそうになることがある。第二の問題は強度である。一般的に材質は極めて薄く、確実に転倒即破損という事態を招く。もし家庭で日常的にこのグラスを使うとしたら、年間最低五個程度の破損を覚悟しなければならないだろう。第三の問題は価格である。ものにもよるが、だいたい高い。

 

 こうしてみるとなんとなく欠点だらけのようだが、わたしとしてはこのグラスこそ最もビールを美味しく飲めるグラスと考えている。何よりも内容量のでかいところがいい。形がすっきりしているので一見容量が大きくなさそうだが、薄いグラスなので見た目よりも容量はかなり大きいはずだ。基本的にビールというものは、ドド〜ッとついでガバ〜ッと飲み干すものであり、この要求を満たすためには、なにはなくとも内容量の大きさが重要となる。さらに、材質が薄いという点にも注目したい。ビール用のグラスは薄ければ薄いほどよい。グラスの厚みと口腔内発泡度もまた密接な相関関係を持っており、薄ければ薄いほど口腔内発泡度は低くなる傾向がある。つまりこのグラスなら美味しく、なおかつたくさん飲めるというわけである。

 

Dは、見てのとおりジョッキである。ジョッキとひと口にいっても小さいものからでっかいもの、ガラス製から陶器製、金属製、木製、果てはプラスチック製二重構造保冷剤入りというものまで様々である。ここではガラス製ジョッキと陶器製ジョッキ(フタ付)について考えてみたい。 近年、生ビールを出す店では、ジョッキを冷凍庫で冷やすことがほとんど常識的になってきた。実に喜ばしいことである。先に述べた結露による泡立ち不良については、その内容積の大きさが十分にカバーしてくれるので問題とはならないだろう。また、原則的にはグラスが薄いほどビールはうまいが、「今日はがんがん飲もうぜ」というノリの場合には、やはりジョッキだ。グワーッと豪快に飲み干して、プハーッと上唇に付いた泡を飛ばしつつド〜ンとテーブルの上へ投げ出
すようにおいても壊れないくらい丈夫なところが嬉しく、また頼もしくもある。

 

 一方、陶器製ジョッキ(フタ付)は、本場ドイツではどうだか知らないが、日本のビール飲みには(いや、少なくとも個人的には)受け入れ難いしろものである。確かに保冷という点では優れているのかもしれないが、唇に触れる陶器の感触だけで、なんだかもう二、三杯飲んだかのように胃が重くなってくる。さらには、あのフタにも問題がある。おそらくは『炭酸が抜けない』とか『保冷効果を高める』などの役割があるのだろうが、十分に機能しているとも思えないし、はっきり言って邪魔だ。

 

  やはり、ビールを飲むための容器の素材はガラスでなければならないと思う。!

 

 

お酌に関する考察

 「ま、ま、おひとつ」とビールを注がれた際、勢いよく泡が立ってグラスからあふれそうになった経験は誰しもあることだろう。このあふれそうになった泡をあわてて飲む人がいるが、あれは絶対にやめるべきである。 まず、あの首を突き出したような姿勢が情けない。そして何よりも、あの泡はひと口目のビールの味を台無しにする。さほどビールが飲めない人でも「ひと口目のビールだけは好き!」というくらい、ビールの醍醐味はそのひと口目にある。ひと口目こそビールの命と言ってもさしつかえない。泡があふれたところで被害の及ぶ範囲はせいぜいグラスを中心とした半径五cm程度だ。あせる必要はない。『速やかグラスをテーブルの上に置き、あわてず騒がず嵐が過ぎるのを心静かに見きわめたのち処置にあたる』、これが正しい対処の仕方である。

 さあ、グラスにビールが注がれ、泡問題も解決した。「カンパ〜イ!」の音頭を合図に、いよいよ本格的な宴席の始まりである。ここでわたしは、ビールにおける『お酌』というものについて考えてみたいと思う。

 

 日本語大辞典(講談社)によれば、『酌』とは『酒をさかずきにつぐ。くむ。』とある。ここで言う『さかずきにつがれる酒』とは、どう考えても日本酒のことであり(少なくともビールではないだろう)、『酌』本来の意味としては、お互いの杯に日本酒をやり取りすることであったはずだ。すなわち『酌』とは、酒(日本酒)とさかずきによってなされる伝統的コミュニケーションの一形態と想像することができる。では、これを単純にビールとグラスに置き換えてもよいものだろうか。日本酒は差しつ差されつお互いの杯に注ぎ合ってきた、だからビールもお互いのグラスに注ぎ合う、これは果たして正しいことだったのだろうか。

 

 結論から言えば、『ビールは手酌に限る』というのがわたしの見解である。とは言うものの、ビールをお酌し合うことは宴席におけるごくごく日常的な光景であり、もはやこれを現在の日本から廃することは不可能であろう。目の前にビールの瓶があったら皆さんに注いで回らなければ気が済まないという人も多いはずだ。一方、人から注がれなければ飲みたくない、注がれるまで待っているという人もいることだろう。だから、百歩譲って『ビールのお酌は(しぶしぶながら)よし』ということにする。よし、ということにはするが、次の点にだけはくれぐれも注意していただきたい。 ビールをはじめとして、よろず発泡系飲料は胃に負担をかける。とくに自分のペースを守って飲めないときには、胃の負担感が急激に強くなるものであり、このあたりが日本酒などとは基本的に異なるところである。どうかお酌愛好家の方には、このことをよーくご理解のうえ、お酌をしていただきたい。お酌する人のペースに合わせて飲ませるのではなく、飲む人のペースに合わせたお酌を心掛けていただきたいと思う。『人にやさしいお酌』、これがこれからの酒飲みのキーワードとなることを切に望みたい。 ビールにおけるお酌を一応容認したような形となったが、わたし個人としては『ビールのお酌反対論者』であることに変わりはない。今後も細々ながら、『ビール手酌運動』を啓蒙していきたいと思っている。

体作りに関する考察

 

 なにはともあれ、体調の維持こそが満足いく飲み食いを実践するための基本である。一にも二にも、からだが資本。日々からだ作りを心がけ、コンディションの調整にいそしんでこそ、人は目標(?)に近づくことができるのだ。 では、いかにして美味しくビールを飲むためのからだ作りをしていけばよいのだろうか。

 言うまでもなく、ひとつは『水分摂取を控える』こと、もうひとつは『汗をかく』ということである。もちろん両方まとめて実践してもかまわない。ここでは、ビールを美味しく飲むための汗のかき方について、二点だけ注意を促したい。
 まずひとつは、汗を一気にかかないことである。サウナなどで一気に汗を出すと、一見ビールがおいしくなりそうだが、これは逆効果となりやすい。確かに一杯目はうまいかもしれない。しかし、二杯目以降は急激に胃の負担感が増すはずである。

 もうひとつは、汗をかき過ぎない、ということである。何年か前に、八月の炎天下のもと、十二時間かけて埼玉・長野間(約二五〇km)を自転車で走ったことがある。脱水状態で長野にたどり着き、居酒屋に飛び込んで、生ビール(大)をグイとひと口、胃に流し込んだ途端、吐きそうになった。過ぎたるは及ばざるがごとし、であった。このようなヘビーな汗のかき方をすると、胃がビールを受けつけにくくなってしまうことに、このとき初めて気づいたわたしであった(それにしても、なんだかんだ言いながら居酒屋を出るときにはジョッキを空にしていた自分が情けない)。 また、『水分摂取を控える』ということに少し関連するが、『ビールを飲む瞬間まで、なるべく水に接触しない』ということも重要である。うちに帰ってから手を洗うのはいいとしても、丁寧にうがいなどしていては、からだが喉の乾きを忘れてくる。喉がいがらっぽかったりする場合は別として、もしもうがいをするなら軽く素早く行うべきである。『風呂上がりのビールはうまい』とよく言われるが、これも同様である。湯船には、飲んだ後でゆっくりつかればよろしい。どうしても汗を洗い流さなければ気が済まないというときでも、できればシャワーにとどめておきたい。それも、できるかぎり素早くすませたい。理由は同じく、水との接触によってからだが喉の乾きを忘れてしまうからである。 最後に、わたしの推奨する最も美味しくビールを飲む方法を披露してみたい。その方法とは、すなわち『二日酔いになること』である。ただし、二日酔いといっても、朝起きたときに頭がガンガンするとか、胃がキリキリ痛むという酔い方では困る。からだを起こしたときになんとなく頭がフワ〜ッとしている程度が理想的だ。喉の乾きを感じることだろうが、極力水分摂取は控えよう。迎え酒などはもってのほかだ。昼食は普通に摂り、夕刻を待つ。この二日酔いの酔い醒めに飲むビールこそ、まさに至福の一杯である。大瓶一本はあっという間になくなるだろう。二本目に入ってもなお味わいは衰えない。そしてもう一本いくか、ということになり、またしてもビール飲みたちは二日酔いへの道を突き進むのである。

 

つまみに関する考察

 

 「本物の酒飲みは、何も食べずに飲むものだ」と言われてきたが、ことビールに関してだけは話が違う。つまみなしにビールだけを飲み続けるのはなかなかつらい。やはりビールを飲むときには何かつまみたい。ましてうまいものなら、それにこしたことはない。 ビールのうまさをひきたてるつまみには、つぎの三条件が重要である。すなわち、■塩分、■油分、■温度(熱)という三条件を満たすものであれば、おおむねビールのつまみとして間違いない。 焼き鳥、唐揚げ、てんぷら、串カツなど、好みは人それぞれだが、とりわけ私が推奨したいのは、フライドポテトだ。なにしろ手軽だし、安価である点にも好感が持てる。できれば、某有名ファーストフード店などのような細長いものではなく、ザクザクと切って皮を付けたまま揚げたものを熱いうちにいただきたい(図2)。もちろん三、四人でテーブルを囲む場合には一気に人数分注文せず、一人前づつ数回に分けて注文したい。 一方、ビールのつまみとして避けたいものの三条件に、■水気、■酸味、■唐辛子の辛味、があげられる。 『水気もの』の代表は、冷ややっこ、漬け物だ。魚の種類にもよるが、刺身などもこの系統にやや近いものが多い。ビールのつまみは喉の乾きを助長するものが望ましく、水気ものはそれ自体が喉の乾きをおさえてビールに対する勢いをそいでしまう。 『酸味もの』も、ほぼこれと同様の理由で避けたい。酢のもの全般がその代表例である。 『唐辛子』とは、意外に思われる人も多いかと思う。ここで言う唐辛子は、ちょっとピリッとくる程度の半端な『唐辛子もの』ではない。ちょっとピリッ、くらいならむしろビールのつまみに向いている。知る人ぞ知る唐辛子料理の最高峰はなんと言ってもタイ料理だ。ぜひ一度、タイ料理を食べながらビールを飲んでみてほしい。私の言っている意味がよーく理解できると思う。強烈な『唐辛子もの』はビールを泡に変えてしまう。 「ビールといえば、とにかく焼き肉!」という人は多いはずだ。確かに、焼き肉をつまみながら飲むビールはうまい。この点に関してとくに異論はない。異論はないが、それでもあえて、『焼き肉はビールの最良の友ではない』とだけここでは申し上げておこう。その詳細については、『超個人的焼肉論』として、回を改め、詳細に論じてみたい。 日本の伝統的なビールのつまみ、枝豆。「アルコールを摂取するときには同時に高蛋白の食物を摂ったほうがよい」ということは、いまや小学生でも知っている常識であり、栄養学的にみればとりあえず枝豆は合格!ということになるが、冒頭の『正しいつまみの三条件』からすれば(少なくとも、茹でたてのあつあつのものを除いては)ビールのつまみとしてやや不向きということになる。 それでもなお、枝豆がビールのつまみの代表格として生き長らえてこられたのはなぜだろうか。それは、ひとえにその色合いの妙にあったのである。黄金色に輝くビール。その脇には、良好に固定された中層型扁平上皮細胞のごとく色鮮やかなライトグリーンの枝豆。色彩学的にみればまことに絵になる取合わせである。もしも枝豆の色が赤や黒だったとしたら、ビールのつまみ界において今日ここまでの隆盛をほこることはなかったに違いない。 

  ところで、ここまで述べてきたことを覆すような、例外的と言ってもよいつまみが一つある。これをつまみと呼ぶにはいささか語弊がある気もするが、ビールとの相性は抜群だ。この『つまみと呼ぶにはいささか語弊のあるつまみ』とは、寿司である。寿司とビール、この相性の良さの秘密はどこにあるのだろうか。残念ながら、私はこの疑問に対して明確な解答を持っていない。今のところ、秘密は『寿司飯』にありそうだぞ、という漠然とした印象はあるものの、理論的裏付けは得られていない状況である。今後症例を重ねて、理論的裏付けを詰めていきたいところではあるが、予算的裏付けのないのが実に寂しいかぎりだ。 ついでながら、寿司をつまみに美味しくビールを飲むためのポイントとして、いくつか注意を促したい。 まず第一に、ビールは瓶ビールであること。ジョッキの生は不可である。 次に、ビールを飲んでいる間は決してガリに手を出さないこと。『寿司は食ってもガリ食うな』はビール飲みの大原則だ。 また、寿司を手当たり次第に食べ続けては、それだけで腹が膨れて肝心のビールが飲めなくなってしまうため、量的な兼ね合いを十分に考慮しつつ、飲み進まなければならない。

 

まとめ

 要するに、それぞれが好きな飲み方で、好きなものをつまみながら美味しいビールを飲めればそれでいいのである。 黙って飲むから、飲み会のときは声かけてね。

 

全日本手酌連合会、発足!《会員募集のお知らせ》

 ビールは手酌で飲ませてほしい、 そんなあなたを手酌連は待っています。

【入会資格】

 ■大瓶ビールを一本飲みきれる方。

 ■居酒屋等で開催される研究集会に、最低年一回は参加できる方。

 ■おおむね泥酔しない自信のある方。

 

全日本手酌連合会 会長  藤田 勝

E-mail : mfujita@mb.okaky.or.jp

■〇八六(二七二)二一二一・内五二二

*会員にはもれなく特製会員証を発行いたします。

 

 


   

畠榮のちょっと読んでみませんか

 ★★奇跡の生還★★

AIDSはもはや死の宣告を意味しないかもしれない!著者 マーロン・ジョンソン

TOP           HOME

  著者は神経病理学者である。彼は、死亡したAIDS患者を病理解剖して脳の組織検索を行ない、死因を探っている。そして、その事件はあるベトナム帰還兵の病理解剖時に発生した。

−−その夜、病理解剖室には消毒液特有の甘い匂いと、固定用に置かれているホルムアルデヒドの悪臭が立ちこめ、昼間に行われた病理解剖のせいで、腐食した人間の腸と胆汁の臭いまでもが満ちあふれていた。解剖台に横たわる患者は骨太な男性で、年齢はおよそ四〇歳。天井を見つめたままの目は落ちくぼみ、黄色くにごっていた。黄ばんだ皮膚が突き出した頬骨にへばりついている、末期状態のAIDS患者。彼の体内では恐ろしいまでにHIVが増殖しているはずだ。からだの抵抗力が弱まるにしたがって、HIVは容赦なく際限なく繁殖し続け、薬剤抵抗性を持ったやっかいなウイルスが血液中に満たされていく。しかも、焼却されるか防腐処理を施されないかぎり、数日間その状態が持続する。死を迎えたエイズ患者の感染性は極めて高く、病理解剖は危険極まりない…。

 

 AIDS患者の病理解剖では、細心の注意を払って万全の準備が行わなければならない。まずは、保護フード付きの予防衣。腕にはプロテクター。マスクと顔を覆う透明なプラスチックのシールド。そしてプラスチック製の手袋を二枚重ねではめる。病理解剖での感染を避けるためには、これだけの重装備が必要なのだ。 専門家であり、十分すぎるほどにこの病気の知識を持っている彼にとって、そんなことは百も承知である。が、彼の前にはラテックス製の手袋二枚というお粗末な防備しかなく、剪刀、メス、脳刀、のみ、開頭用の電動鋸など鋭利な兵器に囲まれて、運命の病理解剖は始められたのであった。

 

 左耳から右耳に向かって切開を入れ、頭皮を外側に広げる。頭皮と白い頭蓋骨の間を血液が流れていく。ほどなく両手は血液に濡れ、致命的なウイルスと彼の手の皮膚を隔てるものは、ほんの薄いゴムの膜一枚でしかなかった。いつものことだ。そう、いつもの病理解剖もこのような危険と隣りあわせながら、何の問題もなく順調にことを運んできたのだ。悲劇は一瞬のことだった。頭皮を剥離してしていた指がすべり、血まみれのメスに向かって飛び出していった。−−−

 

 彼がHIV感染という悪夢に引きずり込まれたとき、彼の頭に真っ先に浮かんだことは、この先、自分は結婚もできななければ子供を持つよろこびも味わえないのかということであった。死を目の前にしたとき、彼は、これまでお預けにしていた人生の喜びをかみしめたい!という切実な思いに駆られた。そこで勇気を起こし、友人に頼んでHIV陽性の女性と結婚をすることにした。彼の第二の人生はここから始まる。

 

 エイズという致死的な感染症と孤独な戦い、生きているが故に経験する苦悩を描き、くじけることなくこの致命的なウイルスに立ち向かう作者の姿を描くとともに、彼の周囲を取り巻く様々な人々との関わりあいにも心をうごかされる。 病理解剖に関わるものにとっては他人事とは思えない出来事である。ノンフィクションでつづられている文章には緊迫感があり是非一読することをすすめたい。なお彼はHIV感染から4年半、血液中に検知可能なウイルスは見あたらなくなっている。

 

E-MAIL :hata@cc.kawasaki-m.ac.jp REV:19991017

 


    コラム・うちの本棚

TOP           HOME

伝記・世界を変えた人々(全11冊)  偕成社 1,500円(一冊)

 小さなお子さんのおられるご家庭にいかがでしょうか。もちろん、小学生からお年寄りまで家族みんなで読めますし、それぞれの年代ごとにしっかりした手応えと満足感が得られる伝記シリーズとなっています。というのも、このシリーズは今までのいわゆる伝記物語とは異なり、きちんとした事実に基づくノンフィクションとしての伝記だからです。

 各テーマごと(■キュリー夫人、■キング牧師、■マザー・テレサ、■ツツ大主教、■ナイチンゲール、■ワレンバーグ、■シュヴァイツアー、■ブライユ、■ガンジー、■パストゥール、堯ピーター・スコット)に著者は異なりますが、いずれも現在世界各国で活躍中のジャーナリストたちが、それぞれの人物の生涯史を通してその業績、人間像を生き生きと魅力的に語っています。また、その当時の時代背景や社会情勢についてもわかりやすく伝えられていて興味を引かれます。 

 たとえば四巻の『ツツ大主教』。彼はマンデラ大統領らとともに、南アフリカ共和国外に対しては隠され続けていたアパルトヘイト(人種隔離政策)の実態を広く世界に訴え、闘った人です。政策に抵抗したために投獄され、拷問を受けては次々に殺されていく黒人たち。政策廃止を訴えて行進する子供たちにまで容赦なく発射される機関銃…。つい最近まで、このような状態が現実だったのですね。本巻では、ツツ大主教の人物像をうきぼりにしながら、南アフリカ共和国におけるアパルトヘイトの実態がどのようなものであったのか、この国の成り立ちにまで遡って記されています。 このシリーズはすでに一〇か国で出版されているということですが、うなづける内容です。(K子)

HOME