最後の武士道




「やぁ!たぁ!!」
 竹刀がぶつかりあう音が響く。20人くらいの子供たちが防具を身につけ稽古を続けていた。その真ん中に一人の女性が熱心に指導をしていた。20代後半で髪は腰まで伸ばしており、三つ編みにしている。きつめな表情であるが氷のような冷たさではない。彼女が子供を見る目はしつけに厳しい母親の目であった。
「それでは今日はここまで!礼!!」
「礼!!!」
 子供たちは整列して女性に向かって礼をした。そして彼らは帰り支度を始め、10分後には道場は女性一人だけになった。
「おや?もう稽古は終わりかい?」
 一人の女性が道場に上がってきた。女性にしては髪を刈り上げており、体つきも恰幅であった。着物がまるで彼女に肉体にはちきれんばかりであったが、あまりいろっぽいものではなかった。ごつい岩のような筋肉で、女傑と呼ぶにふさわしい体格であった。その足元に一人の女の子が彼女の足にしがみついていた。6歳くらいで白地にアジサイ模様の着物を着ていた。顔は女性に似ているから二人は親子なのであろう。だが雰囲気はまるっきり違う。女の子はおどおどしており、時折彼女の後ろに隠れてしまうのである。道場の女性はそれを見てくすりと笑った。
「葛乃殿のご息女にしてはおとなしいですね」
「まぁね。美冬の子供とどっこいどっこいだね、あんたの子も母親と違っておしとやかだからねぇ」
「まあ、葛乃殿ったら。いやみったらしいたら!!」
「あっはっは」
 二人は屈託なく笑い始めた。二人は知人なのだろう。道場の女性は桧神美冬といい、子連れの女傑は織部葛乃という名前なのだ。女の子はおびえてしまい、葛乃の後ろへ身を隠してしまったのである。


「ところで話に聞いたんだけどね。廃刀令が出たのにかかわらず腰に刀を差して、まげを結っている男が逮捕されたそうだよ」
「そう…ですか」
「八丁堀の旦那…。今は羅卒の御厨さんがぼやいていたよ。新時代についていけない人間が多すぎるってね。あの人のことだから穏便に済ませたいだろうけど鉄砲の魅力に取り付かれた警察官も多い。幕府の時代とどう大差があるかねぇ」
 時は1876年。4月上旬。
 廃刀令とは明治政府は大政官布告で以後、大礼服着用者や軍人、警察官など以外の帯刀を禁じたものである。これに士族たちが憤慨したのも無理はなかった。士族は基本的に藩から給料をもらっていたのだが、政府の命令でもらえなくなり、武士のプライドである刀まで取り上げられたのだ。もっともそれ以前に生活に困る有様なので士族たちはひそかに決起のときを待っていたのである。
 この年10月24日、熊本で太田黒伴雄を中心とする200名ほどの集団、神風連が県庁を襲撃し、知事と鎮台司令長官を重傷、死亡させた事件神風連の乱が勃発したのである。
 さらにその3日後福岡では秋月の乱、その次の日に山口では萩の乱が起こるのである。だが結局は3つとも鎮台軍に鎮圧されてしまうのだが、今の美冬たちはそれが起こることなど知る由もないのである。
 ちなみに臥龍館は軍人や警察官なども通っており、なかなか繁盛している。ただしそれらは皆、美冬の夫で(門下生の一人で養子)が相手をしており、彼女はその子息たちなどを相手に稽古をつけているのである。
 二人は部屋の真ん中で茶をすすっていた。縁側にあるので日差しが当たる。庭は立派なもので池があり、時折しし脅しが鳴っていた。女の子は一人で毬つきをして遊んでいる。
 季節は春で、庭には桜が見事に開花している。桜が散る中女の子は楽しそうに手毬歌を歌っていた。
「あたしはあの子に草薙流を教えるつもりだよ。まあ使い道はないと思うが習っても損はないからね」
「今わたしの道場に通っている子供たちも士族の家系の者が多いですね。刀は持たなくとも竹刀なら持っていてもとがめられません」
 とはいえ侍が刀を捨てるのは断腸の思いであるのは間違いない。だが千葉道場を見習い防具と竹刀を取り入れた方式をとったおかげで生き残っているのである。
「確か旦那は夕方に大人相手に稽古をつけているんだよね?あんたより腕は落ちるのにまったくおかしな話だよ」
「女に剣を教わるのは嫌なのでしょう。子供たちも大きくなればわたしより夫のほうを選ぶと思います。それにわたしが稽古をつけるのも夫は反対しております、娘と一緒に華道や茶道を習ってもらいたいようです」
「変わったね、あんたは」
 葛乃はくすっと笑った。やさしい目であった。その瞬間頬を紅く染める美冬。
「昔は男に反発したものさ。やっぱり男に負けたのがこたえたかい?それとも母親になったからかねぇ?」
「ふふ、そうかもしれませんね」
 美冬はふと遠い目になった。寛永2年。時代は幕末と呼ばれ、この国は波乱の波に飲み込まれていたのである。天皇を引きおろし幕府を潰す倒幕派、天皇を敬う勤皇派に別れ日々人斬りが止む日などなかった。第2次長州征伐、14代将軍徳川家茂の病死。薩摩藩で外国人が士族に斬りかかったこと(生麦事件のこと)など、あのころの自分は何を考えていたのだろうか?
 何も考えていなかった。桧神の女剣士として皆に祭られていた。自分より強い男などいなかった。誰もがお嬢様お嬢様と腰を低くしていたのである。町の娘たちも自分に黄色い声を上げていた。その年は自分の自信を打ち砕く事件が多かった。江戸を騒がす鬼。鬼道衆と名乗る輩に自分は敗北したのである。相手は無手の使い手が2人。そのうち子供が一人。三味線を手にした妖艶な女、そして鎖帷子を身にまとい、槍を掲げる破戒僧。彼らが自分に投げた言葉は何であったか?
「君は人を殺したことがない」
 破戒僧にそういわれたとき、とてつもない辱めを受けたと思った。彼らは動けなくなった自分たち、門下生たちに止めを刺すことなく、屈辱的な言葉を残して去っていったのである。確かに自分は人を斬ったことがない。斬る必要がなかったからだ。
 道場破りなどを返り討ちにしたことはあるが、止めを刺そうと思ったことはなかった。あの男はまるで人を殺さない人間は弱いといわんばかりであった。人を殺さなければ強くなれないのか?いや、違う!!それは自分の罪をごまかすために免罪符に過ぎない。自分は違うと言い聞かせていた。敗北した事実を認めるわけにはいかなかった。その場にいた門下生たちは鬼に負けたことなど恥ではないと慰めてくれた。やつらは鬼の妖術を使う卑劣な連中だ。今度彼らにあったら返り討ちにするべきだと。
 いらいらしているところに近頃江戸にやってきた着流しの浪人に出会った。医者の手伝いをしている美里という女性と桜井道場の小娘と一緒に行動をしている男であった。
 以前この男をやじゅう新陰流とからかったことがあった。だが自分も人のことが言えるのだろうか?仮にも自分は負けたのである。うわさでしか聞かない龍蔵院の槍使いにだ。
 それ以降気分が晴れることはなかった。どんよりの梅雨のようなねっとりと絡みつく霧のような感覚であった。稽古をしていても晴れることはなく、ますます着物に染み込み、べちゃべちゃと鬱陶しさと似ていた。
 父親に一度しかられたことがあった。己の心に迷いがあると。
 自分にはわかっていた。しかし、それはどうにもならないのである。人を殺せば強くなれるのだろうか?父親に問いただしてみた。すると父の顔は赤鬼のごとく顔を紅く染め、自分の頬を叩いたのであった。愚かなことを訊ねたと自分でも後悔した。
 自分の失態を取り戻すには手柄を立てるしかない。その機会が大川の川開きであった。この日老中や幕臣などの大物が屋形船にしゃれこむのである。うちの道場もそのために警護に回されるのである。なんでも今回将軍の替え玉を使い、反幕派の連中を誘い出し一網打尽にするとのことであった。
 自分にはどうでもいいことであった。とかく自分の務めを果たせればよいのだ。もし将軍に近づいて無礼を働くものならすぐに斬ればよいのだ。
 斬る。
 自分の一太刀が相手の人生を終わらせるのだ。
 できるのか?自分に人を斬る力はあるのだろうか?
 ふるふると頭を振り、邪念を振り払った。今はそんなことなど考えなくてもよい。敵を見つけ、この刀を相手に振り下ろせばいいだけのことである。そう門下生たちも意気込んでいる。そして彼らは自分に慕ってくれているのだ。彼らの期待を裏切るわけにもいかない。
 ぱんぱん。
 道場に祭られている神棚に向かい手をたたいた。あの世にいる母上に自分を護ってくれと、柄にもなくそう祈ったのであった。
 しかしその祈りは通じなかった。自分はまた負けたのである。
 幕臣たちの乗る屋形船に鬼道衆が襲撃したのである。前に戦った輩の他に今度はなんと鬼の頭目が自らで向いたのである。紅く長い髪に堂々とした風格。年齢は若いようだが、幕臣の子息よりも立派に見えた。幕臣は醜く慌てふためき、まるまる太った腹を揺らしながらひぃひぃ泣いていた。そして自分に対し早くなんとかしろと怒鳴りつけるのであった。
 言われなくてもやってやる。彼らに刃を振り下ろした。
 かきぃぃん!!
 ざくぅ!!
 刀は一瞬のうちに弾かれた。それは自分の手元を離れ、船の端に飛ばされ突き刺さった。
「お、お嬢様!!よ、よくも!!」
 門下生たちが一斉に彼らに突進していった。
 ばきぃ!
「ぐげぇ」
 ばしゃーん。
 門下生の一人が無手の男の回し蹴りを喰らい、船から落ちた。
「ぶぅ、げふげふ!!」
 どうやら無事のようであった。それを見て安心したのか別の門下生が突進していった。
「くっ、ひるむな、ゆけぃ!!」
 ばきぃ、どがぁ!
「ぐげぇ!」「ぐぎぃ!!」
 ばしゃーん。ばしゃーん!
 今度は二人。無手で一番背の小さい少年に一瞬のうちに負けたのである。
「お、お嬢様!後は頼みます。ゆくぞ!!」
「おうよ!!」
 今度は3人がかりで攻め入った。結果は。
 ばきぃ、どがぁ!ぼかぁ!!
「ぐげぇ!」「ぐぎぃ!!」「ぐごぉ!!!」
 ばしゃ!ばしゃ!!ばしゃぁぁん!!!
「なかなか筋がいいな。これもお前さんの教育の賜物かね?」
 槍を持った僧侶が満月の下、にやりと笑った。自分に説法した男である。
「げふげふ、ぷはぁ!!」
「お、お嬢様、お気をつけください!!」
「我々は岸に上がります。お気をつけて!!」
 船の下、川の中に放り込まれた門下生たちが川岸目指して泳ぎ始めたのである。どうやら全員無事のようであった。
「何ゆえあやつらを生かして返した?以前わたしに向けた言葉は偽りであったか?」
 それは精一杯の強がりであった。刀はない。門下生たちもいない。頼れる人間が誰一人いない状態であった。なぜこんな言葉を口走ったのか自分でもわからなかった。
「いや、そうではない。そうではないが、俺は破戒僧だ。破戒僧とはいえなかなか仏法から道は外せんものよ。あまり意味のない殺生は好まんのでな。それにお前さんの身内を下手に閻魔の元に送るのもどうかと思ってな」
「ほう?それではこれはどうじゃ?この血の池地獄をどう説法するつもりじゃ?」
 船上は幕臣の骸が積み重なっていた。中にはひゅうひゅう、口笛のように息をしているものもいたが、時間の問題であろう。目は白くにごり、大方三途の川を渡る準備でもしているのだろう。彼らの懐に渡し賃があるのか心配であった。
「こやつらはな、今宵家茂の人形を操っている娘の村を己の都合で滅ぼしたものたちよ。俺たちはその復讐に来たまでのこと。天が裁きを下さぬなら、我ら鬼道がそれに手を貸すまで」
 それは屁理屈に過ぎない。殺したいから殺す、それは子供の理屈ではないか。それなら道を歩いている最中肩をぶつけた者はみな死ななければならないではないか。鬼たちは自分たちの行為を言葉で誤魔化しているに過ぎない。過ぎないのだが……。
「力なきものが正義を語る刺客などないわ。これに懲りて二度と我らに関わらぬことだ」
 がすぅ!!
 背後から自分を叩いたものがいる。血まみれの幕臣であった。
「くそぅ、なにが剣聖よ!所詮女のままごとではないか!!くそ、くそぉ!」
 背中を木刀で滅多打ちされている。まるで力が入っておらずでたらめに殴っているのだ。自分は言い返すことができなかった。彼らの言葉は的を射ているのだ。言い返す権利などない。まるで世界が芝居の幕のように降ろされていく、そんな感じであった。
「くそぉ、女が、女が!!このまま女郎屋に売ってやろうか?わしの気はこれでは収まらんがなぁ、げっへっへ……」
 ずぶぅ!!
「ほげぇぇ!!」
 幕臣の口に槍が生えた。いや幕臣の口に槍が突き刺さったのである。
「げぇ!!げぇ!げぇ」
 ぴくんぴくんと痙攣した後幕臣は目をひっくり返しながら死んでいった。ぶしゅう。槍を抜くと骸はばたりと倒れ落ち、しばらくひくひく蛙のように鳴きながら死んでいった。
「なぜ?」
「お前さんは我々に負けた。しかし、それをかかわりのないものにけなされるのは腹立たしいものだ。それにこいつも我らの標的よ」
「……」
 めきめきめき!!
 どこからか焼け焦げるにおいがした。見ると船は燃えていたのである。それは将軍の替え玉にも燃え移り、ひくひくと身悶えながら焼けていくようにも見えた。大川にまた日が昇ったのである。それは哀れな亡者を浄化する炎か。それとも煉獄の苦しみを味わう裁きの炎か。
「お前さんも逃げたほうがいいな。では!!」
 鬼たちは川の中に逃げていった。あの後自分はどうなったのかわからない。だが自分はすっかり自信をなくし酒びたりの日々が続いたのである。そして不注意にも鬼たちに捕まってしまったのだから情けない話である。


「結局あの時あんたの身体に降ろそうとしたのは江戸、じゃなく今は東京だね、に呪術的要素を組み込んだ南海坊天海を呼び起こそうとしたらしいねぇ。それでこの東京の結界をおじゃんにさせる方法を聞こうとしたらしいが、失敗したのさ」
「そのようですね。わたしには記憶がございませぬが」
「で、あの女は今どうしてるんだい?ぴせる…は?」
「今もみふゆの中にいますよ」
 すると美冬の艶々した黒髪が突如金色に変わっていったのである。そこには顔は本人だが人格はまったく違うぴせるが出てきたのであった。
「驚いたね。美冬が寝てなくても出てくるのかい?」
「はい。もちろん彼女にはきちんと断ってから出てきます」
「そうかい。ところで前からあんたに聞きたかったんだけどね?」
 葛乃がもじもじしながら言いづらそうにしている。
「ぴせるってあんたの本当の名前じゃないんだろ?」
「はい。本当はジャンヌ、ジャンヌ・ダルクと呼ばれていました。ピュセルはわたしのもうひとつの名前、あだ名のようなものです」
「じ、神武樽九?けったいな名前だね」
「そうでしょうか?国が違うためでしょうね。わたしもあなたのかつのという名も不思議な気がします」
「そりゃあ違いないね」
 かっかっかと二人は楽しそうに笑った。庭の女の子は不思議そうに茶をすする二人を眺めていた。
「まさかまた磔にされていたとは思いもよりませんでしたが」
「磔?あんた磔で死んだのかい?」
 ぴせるの表情が曇った。葛乃はそれを見て自分はしてはいけない質問をしたのだと思った。
「いいえ、火あぶりです。わたしは火あぶりになって死んだのです」
 自分が戦いを決意したのは17歳の頃だった。ある日自分は神の声を聞いた。そしてイギリス軍を相手に戦ったのである。しかし、のちにイギリスに捕らえられ、激しい拷問の上、4ヶ月以上に渡る幽閉生活。最後は魔女として火焙りの刑で自分は死んだはずであった。
 不思議なことに自分はここにいる。国も時代もまったく違うのだ。まさか自分が形はどうであれこの国の女性の体を借りて甦ったのだから。しかもあれから400年以上の年月が過ぎているとは思っていなかった。
「戦うってのは難しいもんさ。後腐れなくすませるのは骨がいる。男はそれでいいだろうけど、残された女はどうなるのかねぇ…」
「かつのはどうなのですか?今は戦うのをやめたのですか?」
「はは、今も戦っているよ。あの子を育てる戦いがね。幸いあの子はあたしに似ないでおしとやかさ。立派な淑女に育ててみせるよ」
「元があなたでは難しいのでは?」
 いつの間にかぴせるは引っ込んでおり、代わりに美冬が戻ってきたようだ。
「おや、もう引っ込んだのかい?まあいいさ。それじゃああたしはおいとまするよ。それじゃ。ほらさようならの挨拶は?」
「さ、さよにゃら……」
 葛乃の後ろに隠れてもじもじしている。美冬は女の子に飴を差し出した。
「あ、ありがたう…」
 ぺこりと頭をたれる女の子。よしよしと葛乃はやさしく女の子の頭をなでたのであった。
 葛乃は女の子を連れて帰っていった。残されたのは美冬ただ一人。
 自分はあとどのくらい生きられるのだろうか?桜ももうじき花を散らすだろう。それまで自分は満足できる生き方ができるのだろうか。自分がいた龍閃組はもうない。真神学舎と名を変え、学び舎となっているのだ。自分の娘もいずれはそこで学ばせるつもりである。自分は今も己が正しいのかわかっていないのである。
「お母さん…」
「美冬、ただいま帰ったぞ」
 習い事から娘と一緒に夫も帰ってきた。気づけばもう夕方である。周りの景色は紅一色に染まっていた。
 ぱんぱん!
 明日のことを気にしていても仕方がない。今は晩の食事を作ることだけを専念すればよいのだ。そう彼らが一緒ならなんだってできるのだから。



《管理人の一言》
 江保場狂一様からの頂き物です。図らずも、このサイト初の外法SSとなりました。管理人自体、まだ書いていないのに(笑)
 母親となった美冬と葛乃のお話です。美冬の回想がメインになっております。
 それではありがとうございました。