鋭い風切り音は、きっと彼女には聞こえなかっただろう。
 なぜなら、その音が聞こえた瞬間には、もうすでに耳が聞こえなくなっていたからである。
 そう、首が胴体から離れてしまったら、そんな音など聞こえるわけがないのだ。
 何も喋ることなどできないし、考えることもできない。ものを見ることもできない。何かを食べることもできない。
 人間という種がこの地上に誕生して以来、首を無くして生きていられた者など、居はしない。
 彼女も、その例に洩れなかった。
 血飛沫すら飛ぶ暇もない、一瞬の出来事。端麗で、学校一と言われる美里葵の美貌には敵わないとしても、それなりに整った顔立ちは、不思議そうな表情のままだった。
 ――ほんの一瞬、それと目が合ったような気がした。
 身に湧き上がる強烈な寒気。全身に走る鳥肌。非現実的な日常を真正面から見つめてしまった故に、まだまだ思考はこちらの世界に還って来ない。だが脳内の一部分が、異常な光景に危険信号を発している。
 ――逃げなければ。
 ――逃げなければ、きっと、自分もアレにやられてしまう。
 割と仲の良かった彼女の首が真っ二つに切られてしまった。
 今日は一緒に買い物へと出掛け、そして一緒に帰宅し、先ほど別れたばかり。貸す予定だったCDを渡し忘れ、彼女の後を追った。
 全身の筋肉をフルに使って走りながら、今日の出来事を反芻する。
 そして、角を曲がった彼女を呼び止めようとして、声を掛けながら自分もそれを曲がった瞬間――――。
 目をきつく閉じた。
 何がなんだかさっぱりわからない。
 どうして彼女の首が空に舞っていなければならないのだ。
 どうして、先ほどまで一緒にいた彼女がそんな事態に陥らなければならないのか。
 なぜ、なぜ、なぜ――――?
 グルグルと頭の中に渦巻く疑問を抱えながら、さらに走るスピードを上げた。追って来られては逃げ切れない。追って来る気配はなかったが、そこで足を止めるわけにはいかなかった――――。





東京魔人学園 盲目編

異伝 『ダブル・ドラゴン』





 ……不機嫌そうな表情で、緋勇龍麻は目覚めた。
 彼の朝は機嫌が悪いことのほうが圧倒的に多い。元々寝覚めはよくないほうだというのに、今日は飛び切り最悪の夢を見たのだから仕方がないかもしれない。思い出してみると、全身から冷や汗が流れ落ちてくる。

「くそっ……」

 夢を鮮明に覚えているというだけでも不機嫌になる要素は十分だというのに、今日はさらに最悪だった。極悪と言ってもいいかもしれない。

「まさか、醍醐と紫暮がそういう関係だったとは……」

 しかも俺に参入を要請するとは……。

「醍醐の奴……小蒔がいるってのに、紫暮とそういう関係になることないじゃないか……」

 夢と現実の区別がついていない彼は、そう呟いた。
 しばらくの間、彼ら二人は龍麻から口を利いてもらえないかもしれない。

「雄矢と兵庫がどうしたの?」

 ………………。
 静かに息を吸い込んだ。そして大きく吐き出した。
 ………………。
 目をこすってみた。自分で後頭部を叩いてみた。
 ………………。
 すぐ近く。それもすぐ側にちょこんと座っている男がいたのだ。

「………」

 もう一度大きく息を吸い込んだ。
 そして、彼は努めて冷静に訊ねる。

「……誰だ、お前?」
「緋勇龍麻」
「………」

 どうやら、鏡ではないようである。目の前に自分がいるのだから、真耶の悪戯で鏡でも置いておいたかと思ったが、言葉を喋る鏡は世界中を死ぬまで放浪しても見つかりはしないだろう。
 龍麻は思い当たることがあって、パンと手を打った。

「……夢か」

 バタンとベッドへと倒れ込む。今日は日曜日。週に一度の完全休日であり、いくら寝ていても怒られることはない。昼近くになるとさすがに起こしに来るだろう。もっとも、平日であってもすでに関係はない。卒業まで、学校へは行かなくてよいのだから。

「夢じゃないよ。僕も驚いたけど」

 大して驚いていない口調で、彼はそう言った。

「じゃあ、テメェは誰だ?」
「緋勇龍麻。……君もでしょ?」
「俺が緋勇龍麻だ」
「違うよ、君も緋勇龍麻だけど、僕もそうだから」

 今度こそ目を開けて、正面に座る男を見つめた。

「……馬鹿か」
「酷い言われようだね」

 心外だとばかりに、彼は首を振った。

「じゃあ、なんでそんなに落ち着いてやがる?」
「君も落ち着いてるんじゃないかな」
「まだ目覚めたばかりで、頭ん中がすっきりしないだけだ」
「僕は君が起きるちょっと前に目覚めてたし、少しは冷静になる時間があったから」

 二人の龍麻は正面から睨み合っていた。話し声が聞こえてこっそりと覗いた真耶は、どちらが本物かと聞かれたなら答えられなかったであろう。どちらも本物だったのだから。

「ふざけんじゃねェ!」
「……君の性格は大体察してるから、怒らないで冷静になったほうがいいよ?」
「この状況で落ち着いていられるテメェが……!」

 ドスッ……!

「ぐっ…て、テメェ」
「だから、君も落ち着こうよ」

 緋勇龍麻の拳が、しっかりと緋勇龍麻の鳩尾に突き刺さっていた。










 再び目が覚めた龍麻は、傍らにいた自分と同じ容姿の男を見て、ややげんなりとした表情だった。

「要するに、アンタは俺ってわけか。だから一撃で俺を倒すほどの攻撃もできたと。現世で唯一の黄龍の器を一撃で倒すってことは、そういうことだろうな」
「そういうことだね。どうやら僕は君の記憶も共有しているようだし」
「……そういえば、俺もお前の記憶らしきものが脳裏を掠めてるな」
「僕には僕の世界がある。でも、なぜかは知らないけど、僕はこっちの世界へ来てしまったみたいなんだ」
「……なぜだろうな」
「……さあ?」

 同じ顔の男が同時に首を捻る。

「元には戻らないのか? さすがにこのままだと不便だろ」
「僕だってどうしてこんなことになってしまったかわからないんだから……」

 なんとなくだけど、見当はついていた。ただ、彼女の場合は捜しても見つかるわけがないことも、龍麻は知っていた。向こうから現れるのを待つだけしかない。

「心当たりあるの?」
「お前もある、と思う」
「……彼女?」
「彼女だ」
「なにかあったの?」
「昨日、遊びに来た」
「それで?」
「いや、それだけだ。別に何もしちゃいなかったと思うんだが……彼女だからな」
「……そうだね」

 疲れたように、もう一人の龍麻が嘆息した。どうやらあちらの世界の彼女も色々とやらかしてくれているらしい。

「ったく、ようやっと全部終わったと思ったのになあ」
「……その言い方だと、僕のほうもこれから色々あるみたいだね」
「記憶の共有が起こってるんじゃないのか?」
「僕のほうに流れてくる情報はそれほど多くはないんだよ。だから詳しくはわからない」

 龍麻は無言で上着を脱いだ。肩、腕、胸、脇腹、背中。無数の傷に包まれている。

「……なるほどね」
「胸にある刀傷は、多分お前もやられると思う」
「……そっか」
「ところで、鬼道衆関連やなんかの記憶はあるのか?」
「僕の世界でも鬼道衆と戦ったしね。ただ、九角天童は生きてはいないけど」
「大元は同じだが、星の数ほどの世界が広がってるってことか」
「わからないけどね」
「言っとくけど、これから色々あると思う。……だが、絶望するんじゃないぞ。そこで全て終わる」
「わかってるよ。ありがとう、緋勇龍麻」

 二人の龍麻が苦笑した。同じ外見。同じ≪氣≫。だが、ここまで性格的に異なる自分を見るのはある意味で新鮮だった。

「まぁ、十中八、九はあの黒魔術師サマの仕業だろうが、しばらく出てこないぞ、きっと。……いつになるかわからないが、その間はここで身を隠してろ。お前が世間に触れると、多分、俺に対する風当たりが強くなる」
「性格的に違うから?」

 龍麻は返答しなかった。もう一人の龍麻は苦笑している。

「君は好かれてると思うよ」
「そりゃそうなんだが……まぁいい」
「それより、呼び方決めようか。そこで覗いている妹さんも混乱するだろうし」

 わずかに開かれた扉から、大きく愛らしい瞳が覗いていた。二人の視線が向くと、ぎょっとしたように大きく開かれ、やがてゆっくりと扉は開いた。

「可愛い妹さんだね」
「お前のほうは……姉か。……心から妹で良かったと、今思った」
「ひょっとして……見た?」
「ああ、チラッと脳裏に映った。似合ってたじゃないか」
「次に言ったら……」
「わかったわかった」

 苦笑して、龍麻は手を振った。もう一人の龍麻には傷があるようだ。そこに触れようとは思わない。もう半年ほど前になるが、こちらの世界の文化祭が平穏に終わったことを心から喜ぶ龍麻だった。

「じゃあ、僕のほうは君のことを『デーモン』って呼ぶことにするから」
「……死にたいのか?」

 龍麻の周囲に金色の闘気が揺らぐ。

「冗談だよ。龍、でいいかな?」
「じゃあ、お前は悪霊憑きでいいか?」
「………」
「そこでヘコむな。転校前は似たような境遇だったんだからな、俺たちは」
「……それもそうだね」
「たっちゃんでいいか?」
「そ、それはちょっと……」
「ひーちゃん」
「君もそう呼ばれてるんじゃ……」
「……たっちゃん。決定」

 たっちゃんは不満そうな表情を浮かべたが、決定と言い切った龍はそれ以上なにも言わなかった。  だが、その場にいた女性にとって、それはわかりずらいものだったらしい。

「兄さんが悪魔。もう一人の『緋勇龍麻』が悪霊。それでいいんじゃない?」

 二対の視線が真耶を撫でた。歓迎の視線でないことは明らかだった。

「俺のことは龍でいい。お前のことは龍麻と呼ぼう」
「一番無難なところだね」

 ただ呼び名を決めていただけだのに、妙に疲れた二人だった。

「ところで……」

 と、そこで大きくインターホンが鳴った。

「誰だ?」

 春休みに入っている龍の世界では、このマンションには常に誰かが訪ねてくるような状態だった。主に京一と葵と醍醐と小蒔なのだが。
 インターホンは間断なく鳴り続いた。ボタンを連打しているのだろう。高○名人もびっくりの速度であろうことは、「ピンポーン」と鳴るのではなく、「ピピピピピ……」と鳴り続けていることで推測が立つ。

「真耶」
「はいはい」

 彼女が応対のために場を離れた。

「……葵とかだったらこの状況をどう説明すりゃいいんだろう」
「葵さんなら説明すればわかってくれるんじゃないかな」
「……ふ〜ん」
「な、何?」
「別に〜〜」

 龍はわざとらしい横目で彼を見つめた。

「龍麻ッ! お願い、助けて!!」

 彼女が突っ込んできたのは、ちょうどそのときだった。

「アン子か」

 そのまま龍へと抱き付いたが、彼女の全身が細かく震えていた。
 龍と龍麻は困ったように顔を見合わせた。

「遠野さん、どうしたの?」

 龍の胸に顔を埋めながら、アン子は細かく震えている。もう春になり掛けているこの東京で、寒さに震えることはまずないであろう。つまり、

「何を恐がっている?」
「だ、だって……」

 強く抱き締めてやりながら、優しい声で呼びかける。彼女の震えは未だに収まらない。龍は彼女が落ち着くまで、しばらくそうしてやっていた。

「はい、お茶」

 アン子が少し恥ずかしそうに龍の胸から離れると、龍麻が図ったようなタイミングでお茶を差し出した。

「あ、ありがと、龍麻」

 それを受け取り、半分くらい飲み干して、彼女の目がギョロっと二人の龍麻を撫でる。
 時間が停止したかのような錯覚は、案外、錯覚ではなかったのかもしれない。
 勢いよく、アン子が口に含んでいたお茶を噴き出した。それは主に龍へと降りかかった。

「……オイ」
「はい、ティッシュ」
「サンキュ」

 龍麻からそれを受け取り、髪と服を拭く。寝巻き姿だったことは不幸中の幸いだった。
 居心地が悪そうに、アン子はその光景を見ていた。

「……で、何があった?」
「あ、アンタたちこそ……な、なんで二人もいるの?」

 震える指先が、二人の龍麻へと指された。
 彼女の混乱が手に取るようにわかる。

「多分、裏密が……」
「……もういいわ。大体わかったから」

 最近は瞬間移動やら壁のすり抜けやら、魔界の三つ頭の犬を召還したやら、もはや人類という種を越えてしまった友人である。人間を複製するなど簡単のような気もする。

「何があったの、遠野さん?」
「あっ……」

 彼女は俯いた。

「見たところ、昨日は家に帰ってないようだけど」

 彼女の服はところどころ汚れていた。

「で、お前は今日、カメラを持ってない。……異常事態だということはわかる。何があった?
「あ、あのね……新聞ある?」
「ああ、真耶?」
「ひょっとして……」

 と、彼女は新聞を開いて龍と龍麻へと見せた。

「気にはなってたのよね。裏密さんと遠野さんのクラスの女の子だし」

 そこには……、

『新宿区のとある路地で女性の変死体』

 という見出しだった。不可解な事件が三ヶ月前に収束していたため、久しぶりの猟奇事件に新聞社も張り切ったのだろう。

『被害者である女性は、新宿真神学園の三年生で、那珂川樹里(なかがわ じゅり)さん(18)』

 龍にも龍麻にも見覚えのある名前だった。

『鋭利な刃物で首を切られ、死亡しているのが昨夜未明に発見された』

 龍の視線がアン子へ向いた。最近は滅多に見られなくなったが、事件の渦中にあったときにはよく見せた視線である。

「これに関係あるんだな?」
「………」

 再び奥歯をカチカチと鳴らしながら、彼女は確かに頷いた。

「那珂川さんって、あのポニーテールの娘だよね」
「俺は髪型までは知らないが、名前と、アン子と仲が良かったということは知ってる」
「卒業を間近に控えてるんだよね……可哀想に」
「アン子」

 肩にそっと触れると、俯いた彼女の瞳から光るものが零れ落ちた。

「き、昨日ね…樹里と買い物に行って、その帰り道……」

 きっと、話すことも辛いのだろう。彼女はやはり小刻みに震えていて、見ているだけで痛々しかった。

「CD貸す約束してたんだけど、すっかり忘れてて、あたしは後を追って、それで、声をかけようと思ったら、じゅ…樹里のく、首が……」

 新聞は、恐らく最大限の控えめな表現をしたのだろう。彼女の様子を見ていると、ただ刃物で切りつけられて出血多量で死んだとは思えなかった。

「首が、無くなっていたか、空を舞っていたか、だろ?」

 ビクッと、彼女は身を震わせた。

「龍」

 龍麻がたしなめる。心身が衰弱している彼女にそういう直接的な表現はダメージが大きいのだ。

「アン子はそれほど弱くはない。家に帰らなかったのは、顔を見られたからだな?」
「あ、あたしは……」
「質問をする。頷くか首を振るだけでいい」
「龍」
「龍麻、少し黙ってろ」

 真剣な目に、彼は口をつぐんだ。これがこちらの世界の龍のやり方だと思ったのだろう。そして、それも受け入れられているということだ。それならば彼が口を出す必要はない。

「お前が見たのは、那珂川の死ぬ瞬間か?」

 静かに――だが顔は上げずに頷いた。

「斬り付けられるところは見たか?」

 首が横に振られた。
 龍はやや考えて、

「武器らしきものは?」

 これも、首が横に振られた。

「とにかく、那珂川の頭が無かったんだな?」

 歯を強く噛み締めるのがわかった。
 彼女は、首を縦に振った。

「加害者と思われる男は見たのか?」

 横に振られる。
 そのような状況に突然置かれたなら、頭がパニック状態になり、たとえ見たとしても、その前に見た光景があまりにインパクトが強かった場合、覚えていないこともある。龍は一つ頷いた。
 彼が黙ると、入れ替わりに龍麻が訊ねる。

「ねえ遠野さん、君はそこから、すぐに逃げたんだよね?」

 これは、縦に首が振られた。
 彼女は曲がりなりにも、龍麻たちと共に戦ってきたメンバーである。戦闘こそ参加しないが、危険な局面は多く経験している。その彼女が、友人の死体を放っておいて逃げ出し、さらに家にも帰らずに逃げ回っていたところを見ると、それまでの経験による危機察知能力が身に迫る危険を察知したために彼女を動かしていたと考えてもおかしくはない。

「状況をまとめよう。首を切り落とすということを、アン子が那珂川と別れてから再合流するまでにできるというのは、尋常ではない」

 異常な膂力によって、さらに殺傷力の強い日本刀を武器に使ったとしても、簡単にできることではない。
 骨と筋肉と脂肪で固められた人間の身体は、それほど柔な作りにはなっていないのだ。あの九角天童でさえ、切る瞬間に≪力≫を込めるからこそ、そのような芸当ができるのだから。

「つまり……、」
「加害者は、≪力≫を持つ者」
「あァ、さらに言えば、アン子は加害者を見ているし、加害者にお前の姿も見られている」
「僕もそう思う。遠野さんがそのまま逃げ回るとはとても思えないから。無意識のうちに加害者の姿を記憶から消して、でも残った恐怖と本能的な危機感で逃げたんじゃないかな」

 龍は話をしながらも着替え始めていた。出掛ける準備をしなければならない事態が起こっているのだから。

「龍麻、お前も着替えろ。同じ顔が二つ並んで歩くのは不気味だろう」
「僕も行くの?」
「行く気満々のくせに」

 苦笑して、彼は龍の服を漁り始めた。

「……せっかくだから、真耶の服を借りたらどうだ?」
「……今、なんて言ったの?」
「女装したほうが似合うだろ?」
「………」

 無言で龍のすねを思い切り蹴ると、彼はさっさと着替え終える。最後にサングラスをかけて、ニット帽をかぶったのは、二つ同じ顔が並んでいる不気味さを隠すためだったのだろう。

「痛ってーー。真耶、アン子を頼む」
「うん、任せといて」

 力無く座り込んでいる彼女に寄り添っていた真耶が、親指を立てた。
 同じ顔の二人はそれを見ると、外へと出て行った。






「≪力≫持つ者が犯人だとすると、厄介なことになりそうだな」
「そうだね。君の世界では、もう全てが終わってるんだよね」
「あァ、そのつもりだったんだけど、な」

 全ては、まだ終わっていなかった。≪力≫持つ者が、龍と敵対していた者や味方となった者ばかりではないということだろう。

「アン子、かなり参ってたな」
「それはそうだと思う。君も、よく耐えたと思うけどね」
「知ってる奴が殺されたなら、怒るのは当然だろうが」

 現場は、まだ警察の人間で溢れかえっていた。ドラマなどでよくみる白いテープが引かれ、そこはロープで区切られて入り込むことなどできそうにない。
 鳴滝の力を使えば現場に入れるのだろうが、入ったところで得るものはないだろうし、何よりこんなことで拳武館に借りを作るのも避けたいところだった。

「ところで、アン子はなんで携帯とかで誰かに連絡しなかったと思う?」

 龍が当然の疑問を掲げた。

「それは、彼女が家に帰らなかったことにも繋がると思うよ」
「それはどういうことだ?」
「女性が買い物に出掛けた場合、大抵はハンドバックみたいなのを持っていくよね。携帯とかも、その中に入れると思うんだ。もちろん財布も」
「あァ、それで?」
「……多分、遠野さんの見た光景っていうのは、首が飛んでるその瞬間だと思う。手にしたバッグを思わず落としてしまうには、十分すぎるほど衝撃的な出来事だ」
「そういうことか」

 財布の中には身分を証明するものなども入っているだろう。そして携帯もそのバッグの中だとしたら……。
 夕暮れから夜に掛けての時間帯で、住所を知られたが故に家に帰れず、そのままどこかで身を隠しながら夜が明けるのを待って、明るくなって頼りになる人の元へ助けを求めに行く。
 言葉にすると簡単なことだったが、実際に恐怖と戦いながらのその行動は想像を絶するものがあった。

「……俺が醍醐と紫暮の夢を見ているときに、まさかそんなことが起こっていたとはな……」
「その夢の内容、微妙に気になるね」

 肩を竦めながら龍麻が言い、龍は思い出すのも嫌がるように首を振った。

「とりあえず、どうしようか?」
「アン子の家に行ってみる」
「どうして?」
「犯人がアン子に姿を見られたとわかっていたら、身分証明書から住所を割り出し、口を封じようとするのは当然だろ」
「うん」
「けど、居ないとということがわかったら、どういう行動に出ると思う?」
「一家惨殺とか?」

 なかなか物騒なことを龍麻は言った。

「いや、家の中での殺人は足が付きやすいんだ。血溜まりを間違って踏んだりでもしたら、間違いなくそこから身元が割れるし。それに、無差別殺人を趣向とする犯人なら、間違いなくその場でアン子も殺しているだろう。そうしなかったのは――いや、そうできなかったのは」
「犯人にとっては衝動的な殺人で、遠野さんに見られたことで動揺していた」
「さすがは俺」
「君こそ、さすがは僕ということころだよ」

 二人は苦笑した。絶対に気が合わないだろうと思っていたもう一人の自分との相性は、なかなかに良いようだった。

「だからアン子の家に行ってみて、友達を装ってアン子を訪ねて来た奴を聞いてみる」
「そうだね、急ごうか。犯人に君の家を知られると厄介だしね」
「むしろそれは歓迎することだけどな」

 あの妹が、友人の友人を殺されて黙っているとはとても思えないのだから。






 遠野家のインターホンを鳴らしてみると、アン子をそのまま中年にしたような女性が出て来た。
 娘が昨夜は帰宅しなかったということで心配していた彼女だったが、娘の口から聞いたことのある信頼のおける男の来訪と、彼の口から娘の無事を聞いたことで大層安心したようだった。

「杏子さんは、今、私の家にいます。妹の真耶や、葵や小蒔も一緒で、卒業式の後のことを話してたんです。昨夜は遅くなってしまったので、私の家に泊めました。明け方まで話し続けていたので、今は眠っていると思いますが。寝ぼけながら、連絡しなくてゴメンって言っといて、って言われました」

 龍は、その気になればいくらでも丁寧な言葉使いをすることができる。さらに今は娘の無事に安堵させなくてはならなかったのだ。最後の一言は、相手に信憑性を持たせるためだった。

「あの……それで、昨夜から今朝にかけて、杏子さんを訪ねて来た人はいませんでしたか? 集合場所が変わって、連絡が付かなかった者が何人かいたものですから」

 隣では龍麻があまりな変貌ぶりにやや呆れていたようだったが、龍は無視した。自分でも笑い出したくなるくらいの言葉遣いであることは自覚している。
 僅かに、ほんの僅かにアン子の母の首が傾げられた。変化を注意して見ていなければわからないほどである。

「そういえば、一人だけ」
「男……ですよね?」
「ええ……」
「名をなんといいましたか?」
「いえ、杏子の不在を確認すると、他を当たってみますと……」
「そうですか、私から連絡を取ることにします。どうもありがとうございました。失礼します」

 そう言って、龍と龍麻は遠野家を後にした。

「……さて、どう見る?」
「僕が気になったのは、二点」
「偶然だな、俺も二点だ」
「じゃあ、僕から言うよ」
「どうぞ」

 再び殺人現場へと戻りながら、龍麻は語り出した。

「遠野さんのお母さんは、君の言葉に驚いていた。卒業後の話をするのに、なぜ『彼』――これから犯人を呼ぶときは『彼』としよう――も加える必要があるのか。……っていう表情だったと思うんだよね」
「あァ、俺も気になってた二点の一つがそれだ」
「つまり、明らかに卒業した後っぽい年齢の人か、それとも、明らかにまだ卒業じゃないだろうって人か」
「俺たちの年代ではないということだな」
「そうだね」

 ただ、≪力≫持つ者に限って言えば、年上はまずありえない。
 過去の実績がそう語る。霧島やマリィのように年下はいても、天野くらいの年齢になると、≪力≫の発現はないと考えても間違いではないだろう。もっとも、自らを鍛えることで≪力≫を維持している鳴滝や神夷のような者もいるが。

「んで、二つ目」
「じゃあ、どうぞ」
「『彼』は、『他を当たってみます』と言っていたらしい」
「うん、僕もそこが気になった」
「さすがは俺の分身」
「さすがは僕の分身だね」

 互いにシニカルな笑い顔だった。微妙に引きつっているのは気のせいではなかったかもしれない。

「話を戻そう。つまりは、『彼』は身分証明など見なくても、アン子の家を知っていた」
「うん、他に行きそうなところを知っているということは、彼女の家を知っていてもおかしくないもんね」
「真神の生徒か……」
「そして可能性があるのは、1、2年生……ということだね」

 龍は伸びをした。それだけがわかっても、完全に手詰まりである。アン子の母に詳しい容姿を聞けばいいのだが、それは不審の目を生み出すだけであり、避けたいことだった。
 さて、どうするべきか。
 二人の龍麻は探偵でもないし、もちろん警察でもない。
 かつての事件は向こうから龍麻を呼び寄せていたから真相に辿り着くことができていた。だが、今回は、恐らく追えば逃げていくというタイプだろう。真神の生徒が犯人だとするならば余計にである。こちらの世界の龍は、真神では一般的な生徒だが、外へ出ると悪魔の御使いとも呼ばれる男なのだ。

「ちょっと聞いてみるか」
「天野さん? それとも鳴滝さん?」
「両方だ」






 日は少しずつ沈み始めていた。アン子が駆け込んで来てから、すでに三時間余り。
 なんとしても、今日中に決着を付けてやりたいということが、二人の龍麻の望みだった。これ以上は、アン子の精神が持たないかもしれないし、アン子の両親にも心配をかけることになるだろう。
 情報通と連絡を取って新たな情報を得るのは当然のことだった。
 龍から連絡を受けた天野は、少しの躊躇も見せずに要請に従ってくれた。とある喫茶店でコーヒーを頼んで待っていると、いつものオレンジ色のスーツに身を包んだ天野が現れた。

「……今日は二人いるのね、龍麻くん」
「驚かないんだな」
「大方の事情は察してるわ。裏密さんの仕業なんでしょう?」
「……それだけで納得できるほど、この世界の彼女は色々とやってるの?」
「まァな……」

 疲れたように、龍は洩らした。
 壁をすり抜けたり、瞬間移動したり、謎の薬の実験台にされたり……、
 色々とやってくれている彼女である。

「ところで、今日呼んだのはあの件でしょう?」
「情報は入っているか?」
「そちらの情報網はどうなっているの?」

 つまりは、アン子のことだ。

「……まず聞きたいのは、天野さんレベルでどこまで情報が流れているのか、ということだね」
「あァ。俺たちは事件の概要も知っているし、犯人が男で、≪力≫持つ者というところまでは知っている」
「……アン子ちゃんもさすがね」
「目撃者だからな……」
「えっ?」

 それは驚くだろう。恐らく、目撃情報など全く無い状況だというのに、知り合いが目撃者だと言われたのだから。

「死体の状況については報道管制が引かれてるんだろ? けど、俺たちは首を切り落とされたということを知っている」
「うん、遠野さんは、そのとき彼女と一緒にいたらしいんだ」
「今はうちで休養してもらってる。相当参ってたみたいだし」

 天野は頷いた。当然ながら彼女レベルなら事件の概要を知っていたし、死体の状態も知っていた。それを目撃したアン子がどのような精神状態にあるかなど想像が付くのだ。まして、被害者はアン子と仲も良かったのだから尚更である。

「じゃあ、このことも知ってるかしら。……死体は首が切り取られていたんだけど、その首は現場に無かったそうよ」

 二人の龍麻は顔を見合わせた。

「つまり、江戸川区の事件みたいに、首を持ち帰った……ってこと?」
「そうなるわね」

 こうなると、また事情が違ってくる。
 衝動的な殺人という線も薄れてくるわけだから、今までの推理は通用しなくなる。

「天野さん、僕たちは真神学園の生徒が犯人だと睨んだんだけど、実際に犯人の目星は付いているの?」
「正直、警察もお手上げみたいね。目撃者はなし。発見時は、死後数時間が経っていたから……」
「状況が最悪だな」

 龍が肩を竦める。

「首を持ち帰った。その一点を見ても、犯人の精神状態は推し量れる。異常者か、異常者になりつつある奴か」
「そうだね。禁忌を犯したことによって、それまで普通に暮らしてきた人が世間のルールから外れるというケースは少なくないし」
「一度戻るか。真耶がどうにかされるということは考えられないが、アン子の状態も心配だ」
「そのほうがいいね」
「ごめんなさいね。力になれなくて」
「気にするなよ。ありがとう」
「うん、これまでも天野さんには助けられてるしね」

 二人は、肩を並べて喫茶店を出て行った。






「振り出しに戻る……か」
「君が承知するかどうかは別として……一つ策があるんだけど」
「多分、俺も同じことを考えている。……あんまりやりたくはないんだけどな」

 正直、仲間を危機に陥らせるのは気が引けるというものだが、仕方がないといえば仕方がない。他に手はないのか。龍は知らぬ間に昔の――そう、事件中に見せたような厳しい顔をしていた。

「遠野さんを囮にするつもりなんだよね?」
「よくわかったな」
「そりゃあ、僕も同じことを考えていたからね」

 同じ龍麻同士、思考回路は似ているようである。
 アン子が狙われていることは、犯人が遠野家を訪ねて来ている時点で確定している。そして、手掛かりは完全に途絶えた。残る道は一つしかないのだ。彼女は人権が云々と喚くかもしれないが、人の首を一瞬にして刎ね飛ばすほどの≪力≫の持ち主を、そのまま放っておくわけにもいかない。
 『彼』は、人を殺したのだから。

「それじゃあ、一旦君の家に戻ろうか」
「そうだな。鳴滝さんのほうの情報はどうしようか」
「遠野さんが頑張ってくれればそれで決着は着くだろうから、いいんじゃない?」
「……意外と酷い奴だ」
「僕たちが護衛に付く。これ以上の安全はないと思うんだけど」
「違いない」

 思わず苦笑してしまった。自分もそうだが、もう一人の彼も緋勇龍麻であることを龍は思い出したのだ。
 自分でさえ、あの激戦を勝ち抜いてきたのだから、もう一人の彼も同じような戦いを経験しているのだろう。隣にいるだけでわかる、死線を潜り抜けて来た者の強さ。
 存在しているだけで気分が落ち着くような安心感。
 仲間たちも自分といるときこのような感覚だったのかもしれないと、龍は頬を綻ばせた。

「ところで龍、敵の能力をどう思う?」
「思いついたのはアレだな。風角の真空の刃」
「うん、僕も真っ先にそれを思いついた」

 だが龍麻は首を振った。

「でも、それだと辻褄が合わなくなるんだ」
「なぜ?」

 首を刎ねるということ自体、風角が起こしていた江戸川区の殺人事件とよく似ている。一瞬にして人間の身体を切断するほどの破壊力となれば、その≪力≫は限られてくるのだ。

「まず一つ。真空の刃であるなら、遠野さんを殺すことは簡単だったと思うんだ」

 龍麻の指摘は正しかった。

「なるほど、男の足で追っていたのであれば、アン子を捕らえることはできなくても、≪力≫の範囲に入れることくらいはできるよな」
「そう……射程距離がどのくらいかは想像も付かないけど、四、五十メートルは範囲内だと、僕は思うんだよね」
「風角の事件では、風角は全く姿を見せなかったようだからな。妥当な距離だろう」
「うん……けど、犯人は遠野さんを逃がしてしまった。後から家まで来るほどなら、そこで殺せたはず。これが疑問の一つ目」

 龍麻は人差し指を立てた。そして、龍の反応を伺って、指を一本増やす。

「そして、二つ目の疑問」
「ちょっと待て」
「えっ、何?」
「お前ばっかり頭良さそうでずるい」
「は?」

 龍麻は首を捻った。

「どういうこと?」
「俺にも謎解きさせろ」
「……君の世界では、こういうのは君の役目だったみたいだね」
「……その笑顔は止めろ。すっごい腹が立つから」

 ひとしきり笑った後、龍麻は龍に発言を譲った。

「じゃあ、どうぞ」
「……もし真空の刃だった場合、どうしてそこまで那珂川に接近する必要があったか……だろ?」
「うん、そこが僕にも気になった」
「仮に突発的な殺人衝動だったとしても、アン子の存在に気が付かないほど接近してはどうしようもない」
「それに、夕方、人目の多いところで人殺しをして、目撃者が遠野さん一人だったのは奇跡に近いよ。自分の能力が真空の刃だと自覚していたなら、そのときは堪えて、後で遠くから狙う」
「つまり、犯人の能力は、真空の刃ではない」
「そう考えるのが妥当だと思うよ」
「……どういう能力だと予想する?」

 龍麻はしばらく黙り込んだ。影はすでに長く伸びはじめていた。

「君はどう考えているの?」
「身体中が刃」
「身も蓋もない言い方だね」
「それか、手刀が刃」
「≪氣≫を硬化させて腕にまとう。僕らも意識すればできるかもしれないけど……」
「天然でそれが出来る奴となれば、油断できる相手じゃないな」
「そうだね。それに、その強度が気になる。僕らが手刀を硬化させても、精々直径50cmの木を折れるかというところだしね……」
「ああ、≪力≫を認識した時点で文字通りの手刀を創れるとしたら、これは厄介だぞ」

 ≪力≫は一つの能力を爆発的に高めることもある。
 オールラウンダーの龍や龍麻、そして京一や醍醐にもこれは該当する。
 しかし、小蒔は弓を射る能力のみ(もちろん弓を射るための目も)が特化されているし、マリィも火走りの能力以外は普通の人間と変わらない。コスモレンジャーは方陣技のみである。
 このような≪力≫は、部分的にだが龍や龍麻も及ばないのだ。
 『彼』の得た≪力≫もそういう分類に入ると予想できるし、そうなれば局部的にこちらの戦力を上回ることになる。

「油断できないな」
「もちろん、するつもりもないしね」

 仲間を呼び集めても良いのだが、龍はそれをしなかった。全てが終わって日常に戻っている仲間を、再び非日常へと引き込むのは彼としても本意ではなかった。






 家には、誰もいなかった。
 アン子が駆け込んで来て、二人が出て行ってからまだ四時間というところだろうか。
 まだ、アン子が動いて安全なときは来ていないというのに。

「どういうことだ!?」

 龍が静まり返っているリビングで叫ぶ。

「冗談じゃないぞ。まだ解決してないってのに……!!」
「龍、落ち着いて」
「落ち着いていられる状況じゃ……!」
「こういうときこそ落ち着かなきゃ」
「だが……」
「はい、深呼吸」

 言葉に詰まり、龍は龍麻を見た。
 そして大きく息を吸い込み、ゆっくりと時間をかけて吐き出した。

「……うん、OKだ。すまん」
「いいよ」

 ニコリと笑う龍麻に、なんだか救われたような気がした。
 龍が激発したときに抑えられる者は、仲間たちの中でもそうは居ない。強いて言えば葵というところであろう。その冷静さとリーダーシップは確かに『緋勇龍麻』のものだった。

「……どこ行ったんだろうね」

 龍麻が現実へと戻す。龍の頭もすぐに回転し出した。

「真耶は馬鹿じゃない。この状況でどこかへ行ったりはしない」
「だよね」

 当然と言わんばかりの龍麻の態度である。龍の冷静さを確かめるための発言だったのだろう。

「とすると、考えるべきことがある。なぜ、二人の姿がここにはないか」
「……真耶は馬鹿じゃない上に、京一や醍醐より実力は上だ。連れ去られたというのも考え辛いな」
「でも、京一や雄矢に本気でこられたら?」
「二人がかりか……それなら一人に致命傷を負わせて、それくらいでやられる」

 つまり、完璧ではないということだ。龍麻の指摘もそこにあるのだろう。

「考えられる可能性は全て考慮しておくべきだ。と言いたいのか?」
「それもあるけど、仮に『彼』の能力が僕らの想像以上だった場合のことを考えておいたほうがいいと思うよ」
「そうだな……さあ、二人は何処へ行ったか」
「とりあえず、何か手掛かりになるようなものはない?」

 龍が辺りを見回した。
 もし、『彼』に見つかって逃げなければならなくなったという事態が発生した場合でも、真耶ならば何らかの手は打つはずだ。彼女に対する信頼感もかなり高い。
 テーブルの上に、小型のトランシーバーのようなものが乗っていることに、龍は気付いた。

「それは?」

 龍麻も気付いたのか、それを手に取った。

「……発信機の受信機だ」
「発信機? また何でそんなものを持っているの?」
「……色々と事情があるんだよ」

 目が見えなかったなどとは到底言えるはずもなく、龍をそれを奪い取ると、ポケットへと放り込んだ。発信機のほうは真耶が持っているのだろう。
 この状況を見る限り、攫われたということはまず考えられない。となると……。

「遠野さんがパニックを起こしたということが考えられるね」

 龍は頷いた。

「あるいは、パニックを引き起こすような何かが起こったか」
「考えていても仕方がないと思うよ。早めに探し出したほうがいい」

 建設的な意見に、ちょっとだけ自画自賛してみる。

(さすがは俺……)
「僕は僕、君は君だからね」

 考えていることもすでに読まれている。
 よくよく考えると、最近は葵たちにさえもわかりやすい男と認識されている龍である。同じような思考回路を持つ自分相手に考えを隠そうとしても無駄なことかもしれない。

「ゴホンッ! さ、行くぞ」
「急いだほうがよさそうだね」

 龍麻のほうは、元々この世界の住人ではないというのに、なんだか張り切っているようにも見える。

「事態は一気に動いたな」
「いつものことじゃない?」

 確かにその通りだった。
 苦笑して、龍は龍麻と共に駆け出した。






 アン子と真耶は、次々と移動しているようだった。
 二人の龍麻が家を出た時点では中央公園にいたためにすぐ捕まるかと思ったのだが、目まぐるしく動き回っていて、予想することもできなかった。

「つまり、何かから逃げているような動きなんだよね」
「そういうことだな」

 もう一人の自分の的確な指摘に、龍は最悪の事態を想定してみた。あの妹は攻撃的な性格をしているが故に、誰かを守りながら戦うということが本当に下手くそなのだ。

「敵と接触していないことを祈るしかないな」
「強いんじゃなかったの?」
「半端な強さなんだ」

 嘘ではない。防御というものをあまり考えないために、一旦守勢に回るとかなり押し込まれることになる。

「今、ドコ?」
「……今度は学校のほうだ」
「それにしてもよく走るね」

 先ほどから30分くらいだったが、その間、彼女たちはずっと走り続けていた。しかも移動速度が並ではない。ダッシュで移動していると考えるべきだろう。

「遠野さんも逃げ足には定評があるからね……」

 ややうんざりとした表情で龍麻。
 龍も同感だとばかりに頷いた。

「立派な記者になれるよ、アイツは」

 八割方は皮肉だったが、龍麻は可笑しそうに笑った。
 四月から天野の事務所で働くことの決まっているアン子だが、何となくそのまま独立しそうな勢いもある。

「二手に別れようか」
「そうだな」

 真耶とアン子を挟むように追いかければ、どちらかは追いつくだろう。そうすれば戦力の増強にもなり、彼女たちが逃げる必要もなくなる。このままだと永遠に追いつけないのではないかと思うほど、彼女たち二人は先の読めない動きを繰り返しているのだ。

「それじゃ、俺は裏口から向かう」
「僕は正門のほうだね」
「……頼む、龍麻」
「君も気をつけて、龍」

 それまでに倍する速度で、二人は別方向へと走り出した。






「嫌な気配がする……」

 龍麻は正門前を歩いていた。こちらの世界の学校へ来るのは初めてだったが、特に変わった様子もない。ただ、なんとも言えない気配がしていた。
 すでに夜闇が辺りを覆っていた。事件発生から約一日というところであろうか。街灯に火が灯り始め、周囲の家々も窓から光が洩れ出している。これ以上時間が掛かるならば、少々厄介なことになるであろう。

「まるで……今にも襲い掛かろうとする野生の獣のような」

 正確に言えば、それは正しい表現ではなかった。『彼』とアン子の戦力比は、肉食獣と草食動物のそれより遥かに大きいのだから。

「真耶ちゃん……って言ってたかな。彼女も相当やるようだけど、ちょっと分が悪いね」

 彼がこれほど落ち着いているのは理由がある。
 真耶が置いて行った発信機だが、受信機は龍の方が持って行ってしまったのだ。これでは彼女たちの位置を特定することもできない。だから息を整えながら、真神学園周辺の≪力≫の動きを探っていたのだ。
 『彼』が仕掛けて来ないことには身動きが取れないという受身の態勢だが、これも仕方ないと言えよう。

「……!」

 ≪氣≫が、大気が、空間が、僅かに動いたような気がした。
 場所は……龍麻の世界とこちらの世界が同じなのであれば、グラウンドの真ん中である。

「龍、始まったよ」

 その呟きだけが一瞬前まで彼の居た空間に残るほどの速さで、龍麻は駆け出していた。






 グラウンドの中央で戦う男女。
 十数メートルの距離をおいて、頭を抱えて蹲る女性。
 グラウンドには三人の姿が確認できた。
 冷静な頭で考えてみる。
 この距離からは攻撃することができない。できたとしても、龍の妹である彼女にも当たる。ならば、有効な策は……。

「遠野さん! こっちへ!」

 走りながら大声を張り上げるが、アン子は顔を上げようともしなかった。
 彼女ほどの人が、完全にパニックに陥っているが、珍しいとは思わなかった。
 アン子が事件の情報を龍麻たちへ流してくれるのは、こちらの世界でも龍麻の世界でも同じことだが、それでも彼らは絶対にアン子を事件の中枢に近づけようとはしなかった。日常と非日常の扉は薄く脆いものだが、一歩踏み込んでしまうと抜け出すことは困難である。今、龍の妹と戦っている男は人殺しをした殺人犯であろうが、彼女にも、そして龍麻にも、当然ながら恐怖心は無い。この差こそが龍麻たちと彼女の違いである。
 龍も龍麻も、恐らくアン子の見た光景を見たとしても、これほどのパニックは起こさなかったであろう。友人の死体をその目で見た彼女の恐怖心は、無意識のうちに忘れていたはずの犯人の顔を見た瞬間に再燃したのであろう。

「遠野さん!」
「兄さ……じゃない、龍麻さん、ここは私に任せて彼女を!」

 龍麻は無言でアン子の側まで駆け寄ると、脇を支えて引き起こした。思いっ切り腰が砕けているために、彼女自身の意志を裏切っているのだ。

「遠野さん、大丈夫?」
「あ……」

 虚ろな目が龍麻へと向いた。

「あの人……樹里を……」
「わかった。もう喋らないで」

 龍麻は笑顔で頷くと、校舎を指差した。

「あそこまで走って。あとで真耶さんを護衛に送るから。……できる?」
「させると思ってんのかよ!?」

 目の前を白刃が通過した。
 考えるより先に、龍麻の身体は動いていた。側をすり抜けようとした男の脇腹を蹴り、体勢を崩した瞬間に、こめかみ辺りに肘を打ち込んだ。
 アン子を庇うようにして数歩後退り、龍麻は目を見開いた。

「え……樫杜くん?」

 見覚えのある男なはずだ。アン子と同じB組の樫杜啓二(かしもり けいじ)である。
 身長は恐らく学年一高く、192cmもある。その長身を生かしてバスケットボール部だったはずだった。体格の良さを生かした豪快なプレイが評判で、東京都ではそれなりに名の売れている選手である。

「……どうして君が」

 二人掛かりの推理は思いっきり外れていた。
 ≪力≫持つ者は、彼らのような高校生を中心に覚醒した。だからこそ二人は犯人が年下であると推測したのだ。アン子の母の言葉もかなり影響力があった。なぜなら遠野家を訪ねた男は、明らかに高校生じゃないと彼女は態度によって証言していたのだから。

「……なるほどね」

 勘違いや思い違いも甚だしいことだった。
 目の前に立つ192cmの男は、どう見ても高校生には見えないだろう。言っては悪いが、かなり老け顔だった。ただ、それほど不細工というわけでもない。年齢よりいくつか上に見える程度ではあるが。

「何がなるほどなんだよ、緋勇」
「あれ? 僕だとわかった?」

 サングラスで顔を隠してニット帽までかぶっていたというのにあっさり正体はわかってしまったようだ。
 龍麻はゆっくりとそれらを外すと、彼を見上げた。

「……どうして遠野さんにも手を出すの?」
「テメェにゃ関係ねぇだろう……気持ち悪ィ喋り方するな」
「まあ、僕は僕だけど彼も彼だからね」
「わけわかんねえ」

 興味なさそうに、彼はもう一度腕を伸ばして来た。どうやら≪力≫は推測通りのようである。
 リーチの長い彼の腕から飛び退ってから、龍麻はアン子を引き寄せた。
 その瞬間に横から真耶が飛び込んだが、彼が腕を一閃すると慌てて立ち止まった。

「龍麻さん、厄介この上ないわよ、この≪力≫」
「そうみたいだね」
「ところで兄さんは?」
「別行動中。この≪力≫、彼が感じられないわけがないから、もうすぐ来るんじゃないかな。……ところで」

 樫杜をじっと見ながら、

「遠野さんを連れて急いで校舎内へ。彼は僕がやるから」
「一人じゃ危ないわよ」
「忘れてない?」

 龍麻は、ふわりと微笑んだ。

「僕も緋勇龍麻だ」

 なぜだか、真耶は凄まじく納得した様子だった。

「だから、させねえって言ってるだろ!!」

 樫杜は両手を掲げて突っ込んできた。

「いけない!」

 反撃しようとした龍麻を抱えて、真耶が横っ飛びをする。地を数回転し、そこで止まった。

「どうして……」
「アイツ、全身が刃物なのよ。身体の全てを硬化させて、鋭化させることができるの。指先もアイスピックみたいになるんだから」
「さっき、蹴ることができたけど」
「それは≪力≫を発揮させなかったから。こんな無茶苦茶な≪力≫じゃなかったなら、私が二秒で仕留めてるわ」
「言うじゃねえか、生意気な一年が」

 勝利を確信したように、樫杜はアン子へと走った。

「っ!」
「しまっ……!」

 彼の向かう先に居るアン子は硬直して動けない。
 先ほど転げたときに、彼女との距離が開いてしまっていたのだ。

「「発剄っ!」」

 彼の背に攻撃するが、二つの頸は彼の身体に弾かれた。

「えっ!?」

 無茶苦茶な能力だが、声を媒介にあらゆる事象に干渉するほどの≪力≫の持ち主もいるくらいだから、これくらいのことは有り得るだろう。

「……っ!」

 声を上げることもできずに、彼女は樫杜に捕まった。長身の彼はアン子の腕を引き、自分の指を彼女の咽元へと突きつけた。

「動くなよ、遠野。動けば脳まで抉ってやるぞ」
「っ……」

 アン子の顔が、恐怖のために白色に染まる。未だかつて見せたことのない表情である。

「……まずいなあ」

 真耶が、口調とは裏腹に、悔しそうに唇を噛んだ。こうなってしまえばアン子の命は風前の灯火……むしろそれ以下である。

「樫杜くん……これ以上罪を重ねるつもり?」
「うるせえよ、緋勇。俺に説教してんじゃねえよ」

 勝利を確信した笑みを洩らし、彼はアン子の頭を手で固定した。首を振るなりして狙いを外されることを避けるためである。

「大体、なんでてめえがここに来るんだよ」
「殺人犯を放っておくわけにはいかないでしょ」
「へっ、俺はなあ、てめえが大嫌いなんだよ。なにがHFCだ。馬鹿みてえに女どもキャーキャー騒ぎやがって」
「緋勇…ファンクラブ?」

 龍麻が首を傾げて、隣にいた真耶は肩を竦めた。

「そうだ、ずっとムカついてた。俺がどれだけバスケで活躍しようが、女どもはやれ緋勇だ、やれ蓬来寺だってな。……なんの努力も苦労もしねえでどんどん上に昇りやがる……!」

 真耶は呆れているようだった。もちろん龍麻も同じである。

「あの女だってそうだ」

 ピクと、アン子が動いた。

「那珂川のクソ女め。てめえからぶつかって来やがったくせに、散々喚いた挙句、『アンタみたいな老け顔じゃなくて、緋勇くんにぶつかってたら良かったのに』だあ?」

 髪が逆立ったように思えた。同時に、赤色の闘気のようなものが彼から立ち昇っていく。龍麻にも真耶にも、当然ながら覚えがあるそれは、自分の欲望に負けた証のようなものだった。

「くっくっく、そのまんまの顔で吹っ飛んで行きやがった」

 空いている左手で、自分の首を切るジェスチャー。

「あんときの顔っていったらよお……自分に何が起こったのかわからないようなツラしやがって。ザマアミロってんだ」

 段々と、アン子の顔に色が戻っていく。目にも生気が戻った。

「持ち帰った首は?」

 龍麻が訊ねた。

「那珂川のか? ああ、そこの焼却炉に放り込んだぜ」

 後ろ手に、学校の焼却炉のほうを指差した。

「そのほうが異常者の犯罪に見えるだろ。俺はこれまで真面目で通ってきたから、疑いが掛かることもねえよ。……目撃者さえ消えりゃあな」

 彼は、残忍な笑みを浮かべて、

「それじゃ、目撃者を消させてもらうぜ」

――――パンっ!

「ふ、ふざけないでよッ!!」

 それは、アン子が彼の頬を叩いた音だった。

「なんでアンタのそんな勝手な感情のせいで樹里が殺されなきゃなんないのよ!!」

 絶対的に不利な状況で、尚且つ殺されかかっているというのに、アン子は激しく彼を睨み付けた。  ふと、龍麻は気付いた。同時に真耶も気付き、目配せをした。

「もう大学も決まってて、将来の夢を楽しそうに語ってたのよ! なんでアンタなんかのために、あの子が殺されなきゃならないのよ!!」

 震える身体を押し留めて、目に涙を浮かべながら、彼女はそれでも視線を逸らそうとはしなかった。

「てめえ……」
「この最低男! 殺人鬼! アンタなんか所詮、人を羨むだけだったんじゃない! 自分の感情を制御できない奴なんて、モテるわけないじゃない! バッカじゃないの!?」
「てめえ!」
「龍麻のことを悪く言う資格も、樹里を殺す権利も、アンタには何一つないんだからね!」
「てめえ――!」

 樫杜は腕を振りかぶった。咽を突き刺すだけじゃ満足できなかったのか、それともこの女には真っ二つにしたほうがお似合いだとか、そういうことを考えたのかもしれない。
 だがその行動は、間違いだった。

「よく言ったぞ、アン子」

 ガツッ!
 という音と共に、樫杜の身体が揺らいだ。その瞬間、龍麻が正面にいた。

「発剄っ!!」

 ダメージは無くとも衝撃は伝わる。彼は数メートルほども吹き飛ばされた後、地に転がって激しくむせた。
 その間に真耶はアン子を保護している。

「……コイツ、殺していいか?」
「それはまずいと思うよ」

 背後から容赦のカケラもなく股間を蹴り上げた龍を、龍麻が宥めた。

「それにしても、『気殺』……僕も寸前になるまで気付かなかった」
「そりゃ、気付かれないための技だからな」

 『気殺』……普段から滲み出ている気配というものを完全に遮断する技である。余程の熟練者でない限りは、すぐ側にいても気付かない。樫杜は武道の心得があるわけでもなく、完全にアン子に気を取られていたのだから、気付かなくて当然だった。鳴滝冬吾や壬生紅葉の徒手空拳・陰の暗殺術の一つでもある。

「ひ、緋勇……なんで二人も居やがる?」

 股間を押さえながら起き上がった樫杜が当然の疑問をぶつけた。

「裏密に聞けよ。……でもまあ、お前はもう二度と人に会えなくなるしな」

 龍は、≪氣≫を解放した。

「ちょ、ちょっと龍、ここでそれはまずいんじゃない?」

 耐性のない樫杜やアン子はもちろん、真耶すらもその圧倒的なプレッシャーに身を硬くしていた。

「どうして俺がこんなに遅くなったと思う?」
「狼さん?」
「大正解」

 つまり、≪力≫が洩れないように結界を張ってもらったということだろう。

「説教されたぞ。フッ、終わったのに何をしているんだ、お前たちは。……って」
「うわっ、今の口調似てるし」

 静かに、樫杜が起き上がった。

「お、お前……一体、なんだ……?」
「クズが喋るんじゃねェって」
「てめえ……」

 長身の彼は、警戒するように二人の龍麻を見据えた。右手を水平に伸ばし、僅かに膝を落とした。

「殺してやるよ、緋勇……」
「……可哀想にな、お前」

 哀れみさえも内包する声だった。
 これまで戦ったどのような敵であろうとも、二人の緋勇龍麻を相手にした者はいない。
 隣に立つ龍麻を見て、コイツがいればあの最終決戦も楽だったんだろうな、と龍は思ったほどである。
 実力的にはまさに互角。いや、むしろ感情を制御し切れている龍麻のほうがわずかに上かもしれない。ただ、龍は先ほど容赦もなく股間を蹴り上げたような残虐性、または卑怯なところがある。やっぱり互角かもしれない。

「俺は≪力≫を手に入れたんだ。佐久間みたいにてめえなんかに負けたりしねえんだよ」

 一般の生徒たちは、もちろんこれまで戦いを知らない。
 佐久間が五百人いたとしても敵わないであろう男に、龍麻が勝利したことすら知らないのだ。それは仕方がないことでもある。
 樫杜が動いた。
 それは直線的な動きだったけれども、決して無駄な動きではなかった。
 自分の≪力≫を把握し、極力無駄な動きを避け、それでいて相手に反撃を許さないような攻撃。
 ≪力≫持つ者として、センスはかなりあるようだった。
 だが、彼の敵は、緋勇龍麻だった。
 そして、緋勇龍麻は一人ではなかった。

「ォラアアアアァァァァッ!」

 鋭いナイフと化した手刀をかわし、巨大な斧と化した蹴りをかわす。
 龍が二つの攻撃をかわした瞬間、龍麻が横から踊り込んだ。

「巫炎」

 轟音と共に、彼の服は激しく炎上した。硬化されている身体にダメージはないのか、彼はそれでも執拗に龍を狙って来た。どちらが自分の知る緋勇龍麻か悟ったようである。
 腕が振られ、頭突きをし、蹴りを放ち、また腕を振る。
 全ての攻撃が一撃必殺の威力を秘めているというのに、それらは龍に当たりはしなかった。
 そして間隙を縫うように、龍麻の手加減した技が的確にヒットしていく。彼の≪力≫を把握している以上は触れることもせずに、間接攻撃が主だった。

「なあ、龍麻」
「なんだい、龍」

 樫杜の息はなかなか切れずに、間断なく攻撃は続いていた。さすがは運動部の部長クラスといったところかもしれない。

「やっぱり殺していいか?」
「却下」
「腕をもぎ取るくらいならどうだ?」
「………」

 やっぱり彼とは似ているかもしれないが、似ていないと、龍麻は思った。

「沈黙を肯定と取ろう」
「ちょ……」

 言い掛けた言葉は、最後まで口から出されることは無かった。
 攻勢に回った龍は、龍麻の予想を遥かに超えたスピードで、樫杜の背後に回り込んでいた。それに気付いた樫杜が振り返った瞬間に、また背後に回り込んだ。
 そして、彼は、腕に手を当てた。

「鳳凰……」

 ――樫杜啓二の左腕は、その瞬間にこの世から消えた。

「う…で……」

 樫杜は、自分の左腕があった場所を扇いだ。そこにあるべき腕は、そこには無かった。周囲を見渡してみても、どこにも無かった。文字通り、この世から消え去っていた。
 今頃になってようやく、切断面から僅かな血が流れ始めていた。

「痛みがなく、自分の身体の一部が無くなる気分はどうだ?」

 底冷えのする声色。
 龍麻がこの世界に来てもう一日が過ぎようとしているが、初めて見た龍の表情だった。

「アン子みたいに俺から逃げてみるか? 恐怖と戦いながら、一晩中身を隠して、逃げ回ってみるか? そうすればアイツがどれほどの恐怖と戦ってきたか、わかるだろう?」
「僕もそれやったほうがいいと思う。彼女の恐怖、君も味わってみるべきだよ」

 呆けたような表情の樫杜へ向け、龍麻は冷酷とも呼べる台詞を吐いた。

「……てめえら…一体なんだ……?」
「少しは那珂川の痛みがわかったか? それとも、四肢を切断しないとわかんないか?」
「龍……」
「わかってるよ、龍麻。さっさともう一本の腕も切断しろって言ってるんだろ?」
「うん」

 能面のような表情の二人の龍麻に、樫杜は心底から恐怖した。
 緋勇龍麻という男は得体の知れないところがある。そういう認識は持っていたのだが、ここまで凄まじい冷酷さと≪力≫は、彼の理解を超えていた。
 ゆっくりと、龍の手が彼の右手に添えられる。

「あ……」

 その言葉を最後に、樫杜の意識は途絶えた。
 精神が現実の出来事に耐え切れなかった結果であろうか。

「……気絶しやがった」
「うん、気絶させるために言ったことだったでしょ」
「まァな」

 恐怖に耐え切れなくなった人間は、意識を切り離すことで自我を保つ。ここで強制的に彼の意識を覚醒させたりしたら、発狂することは明らかだった。それほど楽に人生を送らせることは、二人とも本意ではない。殺しはしないが、楽に生きさせはしない。彼は、人を殺したのだから。

「僕らも、罰せられる存在だけどね」

 寂しそうに、龍麻が言った。

「割り切るしかない、それは……」

 こちらもやや寂しそうに、龍。
 ザッと、グラウンドの土を蹴る音がして、二人は振り返った。
 アン子がそこには立っていた。

「終わったぜ、アン子」
「……ありがとう」
「……遠野さんは、彼をどうしたい?」

 残酷な質問であったかもしれない。彼女に、彼の処遇を任せるなど。だが、彼と一番多く戦ったのは、紛れも無く彼女だった。昨日の今頃から、今日の、まさに今まで。ずっと彼女は彼と戦ってきたのである。

「……殺してやりたい、って言ったら?」
「二秒後には俺が跡形も残らず消し去ってやる」

 躊躇する素振りも見せずに、龍は言い放った。アン子が心持ち、身を固くした。

「……でも、殺さないで」
「あァ」
「生きて、罪を償って欲しい。樹里もそう思ってる。きっと……でも」

 アン子は、寝転がっている彼の頭を一度だけ、思い切り蹴った。
 ガクンと頭が揺れたのだが、彼は覚醒しなかった。

「あたしは、やっぱりコイツを許せない」
「うん、それは当然だと思うよ」
「でも、お前はそれ以上やらないんだな」
「あたしは、樹里じゃないから……」

 肩を落として、彼女は哀れむように樫杜を見た。

「樹里、褒めてたんだよ、樫杜君のこと。ほら、バスケ部が、都大会でベスト8に入ったじゃない。そのとき、あたしは取材で試合見に行ってて、樹里が付き合ってくれてて……でも、ベスト8で負けちゃって、樫杜君、凄い顔で泣いちゃってたのよ」

 アン子の声は、平静を保っていた。

「でも、あの子、『あんなに泣けるほど一生懸命練習したんだろうね』って感動してた。次の日、その試合のことクラスで話題にしたのも彼女だった。樫杜君はショックで休んでて、そのことは知らないんだけどね」

 涙を浮かべながら、アン子は横たわる樫杜から目を逸らした。
 後ろに下がり、すがるように真耶に抱きついて、静かに、泣いた……。
 龍と龍麻は顔を見合わせ、深いため息をついた。

「悪かったな、龍麻。後味悪いだろ……」
「そうだね。でも、一人より二人のほうが、君も気が楽なんじゃないかな」

 疲れたように、二人は肩を落とした。いや、実際疲れたのだから、当然の行動だったかもしれない。これほどまでに後味が悪い事件というのは、そうあるものではない。
 被害者が隣のクラスの女性で、加害者も隣のクラスの男性。
 そして事件の発端といえば、自分への視線に気付かなかった哀れな男が嫉妬に駆られての突発的な行動。

「お前のほうは、気をつけろよ」
「うん、そうする」

 龍麻の世界における那珂川樹里と樫杜啓二は未だ普通の高校生である。

「人間って、弱いよね」
「そうだな……」

 もう一度樫杜を見下ろし、もう一度だけ、深々と彼らはため息をついた。
 龍が、携帯電話を取り出した。

「……鳴滝さん? 龍麻ですけど……」






――――帰り道。

 出会いも突然なら、別れも突然だった。
 龍、龍麻、真耶の三人は、アン子を家まで送って、帰途に着いていた。
 特に会話らしい会話はない。
 あれだけのことがあったのだから、それは当然だったかもしれない。
 ただ、一つだけ。

「真耶、どうして家を出た?」

 彼の声は若干ながら怒りを含んでいた。

「樫杜さんから電話が来たのよ。最初誰かわからなくて、遠野はいるか? って慌てた様子だったから代わったら……」
「遠野さんがパニックになっちゃったと」
「うん、家を知られたら、もう逃げるしかないって思ったみたい」

 それを抑え切れなくて、真耶は発信機を設定すると後を追ったのだ。

「……やっぱ、記者に向いてないかも、あいつ」
「そんなこともないんじゃないかな」

 一応のフォローは入れ、龍麻は肩をすくめた。

「後のことは……鳴滝さんに任せるか……」
「あと、犬神先生もね」

 樫杜啓二は、鳴滝冬吾によって処理された。それは暗殺や殺人ではなく、社会的に存在を消されたことを言う。
 これから彼は、ずっととある精神病院で生きていくことになるだろう。片腕を失った彼は、狂気の兆候が目についたからである。
 だが、その病院の優秀なスタッフは、きっと彼の発狂を認めはしない。全力でそれを阻止するだろう。
 だから彼は、自分のした罪を受け入れつつ、一生を狭く真っ白い病室で過ごさなければならない。
 それがどれほどつらいことであっても、それ以上楽な道を見つけてやることは、龍には出来なかった。
 彼は、何の罪もない人を、もっとも残虐な方法で殺したのだから。
 また犬神杜人は、自分のクラスの生徒が二人も殺人事件に関わっていたこと、そしてそのうちの一人が被害者で殺されてしまったことなどで、マスコミの取材を受けたりもしていた。ご苦労様、というところである。
 二人とも、龍のことも龍麻のことも真耶のことも、そしてアン子のことも全く口に出さなかったのだから。

「う〜ふ〜ふ〜ふ〜ふ〜ふ〜〜〜〜〜」

 暗い雰囲気をさらに暗くさせるような声が、夜空に響き渡った。

「……現れたか」

 半ば納得の気持ちで、龍は呟く。彼女のことだから、自分たちの今までの行動は全て水晶を通じてでも見ていたことだろう。
 スーッと、彼らの目の前の空間が割れた。
 そしてその中から、黒いフードをかぶった怪しいビン底眼鏡が現れる。
 すでに耐性は出来ているため、驚きは少ない。最近多用される瞬間移動であった。

「人間の複写実験は成功ね〜〜」

 満面の笑みで、彼女は唐突にそう言った。

「それじゃあ僕、元の世界に帰れるの?」
「うふふふふ〜〜」

 正体のわからない笑みは絶やさず、彼女は龍麻を見上げた。

「帰りたい〜〜?」
「そりゃあね」
「帰してあげようか〜〜〜?」
「頼む、帰してやってくれ。コイツにもまだやることがあるはずだ」

 声は、龍のものだった。

「わかったわ〜。十秒あげるから、お別れは済ませてね〜」

 残り時間は十秒しかないらしい。
 慌てて、彼らは向かい合った。

「龍、重たい事件だったけど、君と過ごせて楽しかったよ」
「……恥ずかしいことを堂々と言う奴だな」
「事実だし」
「そうだな」

 二人は、同時に同じ笑みを浮かべた。

「もう会うことはないかもしれないけど」
「あァ、俺たちはお互い、別の世界で生きよう」
「そうだね……」
「あと二秒〜〜」
「龍麻……頑張れよ!」
「うん、ありがとう……」

 彼の姿は、裏密の作ったらしい魔法陣の中へと吸い込まれて行った。

「……行っちゃった、ね」
「あァ……」
「んふふふふふ〜〜」

 後に残ったのは、龍と真耶と裏密であった。
 龍は、ひょいと裏密を抱えあげた。
 突然の行動に、やや戸惑い気味の裏密。

「な、なに〜、ひーちゃ〜ん?」
「色々と聞きたいことが山ほどあって谷に突き落としてやりたいことも山ほどあるからちょっと付き合え」
「ゆっくりわかりやすく喋って〜〜」

 それなりに身の危険を感じているのか、裏密の声は常にない必死なものだった。

「裏密、覚悟しろよ。今回のはちょっとビビリまくったからな」
「真耶ちゃ〜〜ん!」
「頑張ってね、裏密さん」

 彼女が緋勇家でどのような罰が科せられたのかを知る者は、当事者たちしかいなかった……。









≪後書き≫

 KAN様、約一年前のキリ番リクエスト、ようやく書き上げることができました。
 遅くなって本当に申し訳ありませんでした。

 リクエスト内容は、私の『盲目編』の龍麻とKAN様の『黄龍戦記』の龍麻の共演ということでした。
 この話の世界観は盲目編のもので、裏密によるクローン作成の実験ということで、別世界(黄龍戦記)の世界から召還されたという、我ながら無茶苦茶だと思う設定で書かせていただきました。
 龍と龍麻……なんともわかり辛い呼び名ですけど、他に選択肢もなく……。なかなかに苦労してしまいました(笑)
 内容はともかくとして、お納め下さいまし。
 どうもありがとうございました。
2002.11.04 jon


《管理人の一言》
 jonさんのサイトにお邪魔した際、30000HITを踏んだ記念にリクをした物です。内容の通り、他作品の主人公との対面という無茶なリクにもかかわらず、快く引き受けてくださったjonさんに感謝です。
 いやぁ、それにしてもウチの龍麻とjonさんトコの龍麻。同じ龍麻でもほぼ正反対。しかしどこか似通っていうるという微妙なトコが、思わずニヤリとさせられます。記憶の交差って言うのも面白いですね。その点ではウチの龍麻の方がしてやられているような気がしますが(笑)
 それではjonさん。イイ物をありがとうございました!