真神学園生徒会室の一際大きな机を前に、一人の女生徒が唸っていた。
 生徒会室へ入る扉は一つしかない。しかし、その扉を開けて室内を見渡してもその女生徒の姿を見つけることはできなかった。教室でさえ、入口に立つと全てを見渡せるというのに、その半分ほどの大きさしかない生徒会室が見渡せないというのはおかしい。彼女の姿を見つけることはできないが、唸り声だけは聞こえて来る。ホラーだった。


『勝者と敗者の関係』



 緋勇龍麻は生徒会室の扉を物音一つ立てずに開けた。鉄の匂いと共に、彼女の匂いもする。ここにいるのは間違いない。
 生徒会長である彼女の席を見るが、その姿は見えない。いつもは入って正面に見えるはずの顔を隠しているのは、膨大すぎるほどの書類であった。机の上に溢れんばかりに積まれた書類は、全て彼女の承認印を待っているものばかりである。
「う〜〜〜〜…………」
 珍しい。
 彼女が地の底から涌き出るような唸り声を上げている。
 龍麻は気配を殺し、静かに室内へと足を踏み入れた。そのまま入口横にある古いソファに腰を下ろし、机の方を見る。ギシギシとソファが音を立てるが、唸り続けている彼女の耳には届かなかったようだった。机の方からは印を押すポンという音と、相変わらず唸り続けている彼女の声しか聞こえない。彼女の後ろ、入口の正面にある窓からは運動部の掛け声が聞こえてくるが、それすらも室内の静寂を増す要因の一つであるかのようにも感じる。
「う〜〜〜……」
 数分経っても彼女はこちらに気付く様子はない。それほど仕事に集中しているのだろうか。それとも唸ることに集中しているのであろうか。いや、彼女の場合、仕事のほうであろう。一つ一つの書類に全て目を通し、納得が行かなければ承認しないのだ。彼女の几帳面な性格が表れている。
 とはいえ、膨大な書類はさらに数分経っても全く減る様子はない。時折、新たな書類を引き寄せる彼女の白い手が見え隠れするが、完全に仕事に没頭しているのか、龍麻がすでに同じ部屋にいることにも気付いていないようである。
 そもそも、今日は剣道部もレスリング部も弓道部も公式戦によって学校にはおらず、久しぶりに二人で羽を伸ばそうという話だったはずなのだが、待てども待てども彼女は約束の場に現われず、まさかと思い学校へと戻ると、案の定ここにいたのだ。
「……はぁ〜……ん〜〜〜!」
 疲れたようなため息と共に彼女が大きく伸びをした。書類の向こうに高く上げた両手が見える。
「……いつの間にかこんな時間……。龍麻、まだ待ってるかしら……?」
 ああ、待ってるよ。もう三時間も。
 心中でそう言いながらも、自分を気遣う葵に対して強くは出れない龍麻である。自然と頬に笑みを浮かべてしまう。それでも声を掛けず、彼女の独り言に聞き入っているあたり、龍麻も葵曰く「意地悪だ」ということなのだろう。
「……はぁ。……今日になって突然言われても、私にだって用事はあるわよね」
 さらに珍しい。
 彼女の愚痴を聞くのは初めてのことなのではないだろうか。仲間達がいる限り、絶対に口にはしないだろうが、葵は同じ部屋に龍麻がいることに気付いてはいない。
「大体、困ったら全部私のところに持って来て、後を任せて帰るなんて……」
 一度口を付いて出始めた愚痴は段々と止まらなくなっていく。龍麻はというと、そんな葵が返って新鮮に思え、新たな発見をしたかのように目を輝かせて声の方を眺めている。無論、姿は書類に隠されて見えない。向こうからもこちらは見えていない。
 ズズズッ……とコーヒーか何かを啜る音が聞こえ、龍麻も「そう言えば喉が乾いたな」と思う。
「全校での選挙で選ばれたってことは、それだけの責任があるってことでしょう?」
 次第に独り言が見えない者に向かって語りかける口調になってきていることに彼女は気付いていない。
「私だって何でも出来るわけじゃないのよ。人間なんだから。たまに好きな人とのんびり過ごしたいと思うし、本当ならこんな仕事なんてしたくないわよ。龍麻を待たせてまで!」
 止まらない。
「ああ! 久しぶりに二人っきりで過ごせると思ったのに!!」
「今日中に終わるわけないじゃない、この量は!!」
「ああ、もうヤだ! 生徒会長なんて辞めたい!!」
 続けざまに出て来る葵とは思えぬ言葉の数々。龍麻前ではたま〜に本音を見せることもあるが、それでもこのような葵は見たことがなかった。
 クックッ……。
 堪え切れず、龍麻は思わず吹き出してしまう。
 キレてしまった葵のことを、龍麻は理想が崩れたとか、失望したとかは思わなかった。ただ一つ、
(可愛い……!)
 それだけだった。
「誰ッ!?」
 葵が椅子を蹴倒して立ち上がる。それはそうだろう。完全な密室で、しかも自分以外誰も居ないと思っていた部屋から忍び笑いが聞こえたら、それは誰でも慌てるものだ。
 そう、誰でもそうなのだ。
 自分の仕事を終えて、帰ろうとしたところで捕まり、仕事を手伝ううちにいつの間にか一人で全てをこなさなければならない事態になれば、誰でも恨み言や文句は言うだろう。葵一人が特別なわけではない。
「久しぶりに二人っきりで過ごせると思ったのにな」
「……龍麻!?」
 葵が龍麻の姿を視界に収め、次いで目を丸くする。龍麻はソファに座り、偉そうに足を組んでいた。腕を頭の後ろに組み、ウインクを一つして、ニヤリと彼特有の笑みを浮かべる。
「今日中に終わるわけないよな、その量じゃ」
「た、龍……」
「もう辞めたいのか、生徒会長?」
 クックックッ、と笑う。
「龍麻ッ! いつから!?」
「そうだよな。選挙で選ばれた以上、自分の仕事に対して責任持ってやってもらわなきゃ、会長としては大変だよな」
「……質問に答えて!」
「とってつけたように怒ってもダメだ」
 やはり、さも可笑しそうに龍麻は笑う。それはそうだ。今の葵は自分の愚痴を聞かれた照れ隠しに怒っているのが明白なのだから。龍麻はそんな葵を見るのも初めてだった。
「今日は本邦初公開のシーンが多いんじゃないか、葵?」
 思い出したように頬を染め、葵はその顔を見られまいと窓から外を眺める。その照れる仕草も初めて見るものだ。
「クックッ……」
「その笑いは止めなさい!」
「クック……なんで?」
「まるっきり悪者の笑い方じゃない」
「クックック……」
 止めろと言われて生まれつきのものが直るわけではない。
「もうッ!」
 怒ったように窓へと視線を移した葵につられて外を眺め、ようやく運動部の掛け声が止んでいることに気がついた。夕暮れを過ぎ、すでに夜と呼べる時間に突入している。
「……で、なんでこんなことになってんだ? 最愛の男との約束も果たせないほどのことなのか?」
 怒ってる口調ではない。むしろふざけているときの口調だった。それだけに葵としては申し訳ない気持ちになってくる。
 龍麻は葵の性格のほぼ全てを把握している。少なくとも仲間内では。彼女の親友である小蒔よりも龍麻の方が葵のことを『知って』いるかもしれない。葵は人から真剣に頼み事をされると絶対に断れない。生徒会長という責任感からではない。生まれ持った優しさ故である。そして一度その頼み事を引き受けた以上、決して途中で投げ出すことはない。
 ……だからこそ都合よく利用されることもある。今回がそのケースである。会長自身が引き受けた。つまり、明日という期日までに全て済ませなければ、責任は全て葵にあるというわけだ。やるべきときにやらなかった生徒会役員の責任逃れだった。葵はそれもわかっていたのだが、外せない用事があり、必ず戻ると言った者に代わって仕事をしていたのだ。
「……ふぅ〜ん、つまり、そいつの方が俺より大事ってわけか」
 説明の間にも仕事は再開しているところが葵らしいところでもあった。龍麻はこれまた偉そうに、葵に容れてもらったコーヒーなど啜りながらソファにもたれ掛かっている。
「そういうわけじゃないわ……ただ……」
「ただ?」
「用事があるって言ってるのに、この仕事を片付けてから帰りなさいって言うのも……」
「頼られてるな……過度に」
「……そうかしら?」
「ああ、これでもかってほど」
「……自分じゃわからないわ」
「んーにゃ、頼られてるね」
「だったら嬉しいわね」
「本音は?」
「………」
 沈黙。
 龍麻にはその沈黙の意味がすぐにわかった。口に出すと、止まらないほどに言葉が溢れることが葵にはわかっているからだ。
「本音は?」
「龍麻、いじめないで……」
 ため息をつくと、龍麻は葵の机の隣まで歩く。その頃には葵も龍麻を見上げるように目を合わせている。
「……せめて俺の前でくらい本音トークしようぜ。じゃないと……」
「じゃないと?」
「手伝ってやんない」
 そう言って今だに積み上げられている書類を指差す龍麻。一人でやって、今夜中に終わるような量ではない。
「……別にいいわよ」
「クックッ……本音は?」
「……手伝って。お願い」
「了解」
 クックック……と、彼らしい笑いを忘れずに付け加え、龍麻は椅子を引き寄せて葵の隣に座った。
「ちょっと、そんなにくっつくこと……」
「デートも一緒に済ませばいいじゃん」
「もうッ!」
「……なぁ、もう誰も学校に残ってないのかな?」
「さ、早く始めましょ」
 聞いちゃいない。



 あれから何時間経っただろうか。龍麻は大きく伸びをして、壁に掛けられている全校統一の安っぽい時計を見た。
「二人でやって、3時間経って、まだこんなに残ってんのか」
 全く減る様子のない紙を見た龍麻がうんざりとそう言った。
「高橋くんが戻って来たら三人になるわ」
 高橋とは生徒会役員の一人で、今日のデートを潰した張本人である。龍麻とも面識があるが、一度帰ってから仕事をしに戻ってくるようなタイプではない。無論、これは龍麻の主観であるが。
「……良い奴すぎる」
「なに?」
「お前は将来マルチ商法とかに引っかかるタイプだ」
「……どういう意味?」
「もう少し人を疑うことを覚えろ」
「……信じることは大切よ」
 はぁ……。龍麻の口から出たため息は、明らかに賞賛のものではなかった。
「お前なぁ……誰のせいでこんなに苦労してると……」
「それじゃ、賭けましょうか?」
 賭け!?
 まさか葵の口からそんな言葉が出て来るとは思わない龍麻である。目を丸くし、口を半開きにしてまじまじと自信に満ち溢れる彼女を見ていた。そしてやっとの思いで口を開く。
「……ほほう、美里嬢は俺に賭けで勝つと?」
「ええ」
「こないだ歌舞伎町で自信満々な白ラン着たヤローと花札やったけど、二十万ほど稼がせてもらったぞ。その俺と賭けで勝負すると?」
 ちなみに、この時点で龍麻と村雨は出会っていない。彼が龍麻達と接触するときに京一の身包みを剥いだのは、このときの復讐のためだったらしい。
「……ええ」
「賭け事強いぞ、俺」
「ふふ……」
 自信たっぷりの笑みだ。
「ハッシーが帰ってくるかどうかで勝負か?」
「ハッシー?」
「高橋だからハッシー」
「……はぁ…」
「負けたほうは?」
「勝ったほうの言うことを何でも聞く、っていうのはどう?」
「乗ったぁぁぁぁ!!」
 立ち上がり、すでに龍麻はガッツポーズをしている。
「あんなことやそんなことも……ヒッヒッヒ……」
「すでにキャラが違うわよ、龍麻。いいから高橋くんが来るまで仕事しときましょ」
「来ないからやっとかなきゃな」
「来るわよ」
「いや、来ないね」
「来るわよ」
「来ない」
 そのとき、龍麻がこの部屋に入ってきたときとは対照的に大きな音を立てて戸が開いた。
「すいません、美里さん。長引いちゃってこんな時間に……って、アレ?」
 彼は寄り添うように座って仕事をしている二人を見て、「ゲッ!」という顔になった。
「……あ〜あ、来ちゃったよ……しかもタイミング良く」
「うふふ……」
「……ひょっとして、今日は緋勇さんとデートでした?」
「ああ、誰かさんのせいでオジャンになったけどな」
「す、すいません。手伝います!」
「元々お前の仕事だろ」
「す、す、すいません」
 バタバタと慌てて取りかかる彼を見て、葵は龍麻の耳元で囁いた。
「ね、戻って来たでしょ?」
「……お前の勝ちだな」
「なんの話です?」
「テメェにゃ関係ねェ。さっさと終わらせろ」
「は、はい!」
「目標は12時までに終わらすこと。いいかしら?」
「「了解」」



 一人増えたことで特別早く終わるものでもなく、結局終わったのは午前を回っていた。しきりに謝っていたために龍麻も強く出ることができず、高橋くんは奇跡的に無傷で帰宅したようである。そしてこの二人は……。
「やっと終わったわね……ああ、夜空が綺麗……」
 澄んだ秋空に浮かぶ無数の星。じっと眺めていると吸いこまれそうな気さえしてくる。
「俺さぁ……」
「え?」
「真面目な話、人を見る目には自信があったんだ」
 夜道はシーンとして、二人の会話と足音だけが暗い夜空に吸いこまれていく。街灯に照らされて遠くからはぼんやりとしか見えない二人の姿は、彼らのルックスの良さも手伝って、伝説にでも出てきそうなほどの神々しく見えた。
 しかし、その会話内容は二人の姿とは対照的に世俗的であった。
「賭けのこと?」
「あいつが戻って来るとは思わんかった」
「彼は責任感あるわよ」
「お前愚痴ってたじゃん。だからそういう奴だと思った……」
「それは……私だって、用事があるのに仕事が入ったらちょっと愚痴ることだってあるわよ」
「珍しかったな」
「誰もいないと思ってたからよ」
「俺の前じゃ見せないくせに」
「見せないわよ」
「なんで?」
「……恥ずかしいもの」
「クーッ、可愛いねェ」
 そう叫んで葵を抱き寄せようとする龍麻だが、それを彼女はひょいとかわす。
「……つれないな」
「そうかしら?」
「今日だってデートより会長としての仕事をとったしさ、もう少し俺に愛を分けてくれてもいいんじゃない?」
「今日は……本当にごめんなさい」
 改めて謝られると龍麻としてもそれ以上は何も言えない。
「ま、今日は葵の色んな一面が見れたからいいけど」
「明日からは、龍麻の色んな一面が見れるかもね」
 そう言って、ニッと彼女らしくない笑みを浮かべた。賭けに勝った以上、龍麻を奴隷にまで堕とすことも可能なのだ。
「……はぁ〜あ、俺がどうなるかはともかく、あんなことやこんなこと……男の浪漫が……」
「……本っっっっ当に勝てて良かったわ」
 と、やや青ざめながら葵。
「何にしようかしら……?」
「無茶なのは止めて下さい」
「うふふ……」
「今となってはその笑い方が非常に恐いんだが……」
「うん、決めたわ!」
 何やら決意した表情で龍麻を見る葵。
「……ではお姫様、何でも仰って下さい」
 クスリと笑い、片膝をついて龍麻は指示を待つ。
 葵は僅かに躊躇したが、手を差し出して龍麻を起こし、その耳元に口を寄せる。
「あのね…………」


 その日を境に、緋勇龍麻と美里葵の親密度はさらに上がったらしい。




≪後書き≫
 KAN様、40000hitおめでとうございます。
 どういう話にしようか迷ったのですが、結局こうなっちゃいました。気に入って頂けたら幸いです。ラブ度が足りない上に、龍麻×葵ってより葵×龍麻かもしれませんが(笑)。
 龍麻の性格としては、ウチの龍麻に似てますね。一度書いたらこれしか書けなくなっちゃいましたね(笑)
 っていうか、葵の性格違うような気がする……ご勘弁を。それと、葵が最後になんて言ったかは秘密です(爆)
 マジな話、私がssを書き始めたのは「黄龍戦記」に刺激を受けたからでした。書き始めてから今まで、そしてこれからもKANさんの「黄龍戦記」が目標です。
 これからも頑張って下さい!    jon


《管理人の一言》
 jonさん、御祝いの品、ありがとうございました。いやー主葵だ(笑)頂き物のSSは、これが初めてです。絵ばっかりリクしてたからねぇ。
 龍麻は意地悪だし、葵は本音をボロボロと……こういうのもいいですねぇ。まあ、龍麻が妄想した「男の浪漫」とやらはさておいて(笑)葵が最後に何を言ったかというのはやっぱり気になります。ですから、勝手に妄想させて頂きましょう(爆)
 ではではあらためて。jonさん、ありがとうございました!お互い頑張っていきましょう!