KANの冒険
Quest5:日光・那須へ
8月中旬。旅に出る決心をした。本来なら7月に長崎あたりに出掛けているはずだったのだが、病気でダウンしたから行けなかったし。どこに行こうか迷ったが、前から行きたいと思っていた日光に決めた。
さて、どこどこ巡るか。日光に出向くからには東照宮は必須だ。それに華厳の滝も観たい。でも、これだけだと寂しいので那須へ足を伸ばそう。殺生石があるし。
行き先が決まると後は準備だ。持っていくものはすぐに揃う。今回はデジカメもあるし。ただ、一つ困った問題があった。
それは宿だ。初日はいい。東京に泊まるから安いビジネスホテルがとれる。しかし二日目の宿はそうはいかないのである。せっかく日光まで行くので近くの温泉にでも入ろう、と色々検索したのだが……泊まれる場所がないのだ! 値段が高めということもあるし、それが許容範囲で「よしここにしよう」と思っても二名様からだったりするわけである。どうせ俺は独り身であるし、こんな趣味に付き合える友人はいない。何分、旅は時間と金を費やすのでおいそれと誘えないこともある。
それでも何とか那須に一人で泊まれる場所を確保できた。ちょっと強行軍になるが仕方あるまい……温泉も確保できるし。しかし観光地は一人旅の人間にもう少し優しくなるべきだと思うのだがどうだろう、皆さん?
出発当日。8月29日。
前日が仕事であるため、仕事が終わると家に帰って荷物を回収。タクシーを呼んで駅へと向かった。
新幹線に乗り、東京へ。今回ものぞみではなく、ひかり。これまたのぞみを利用するメリットがなかったから。
東京へ着。そこから上野へ。今回は新宿ではない。二日目の交通の便をよくするために、出発地点の最寄り駅を選んだのである。
予約していたビジネスホテルに向かい、チェックイン。とりあえず暑かったのでシャワーを浴びる。
今回、こっちで会う予定の人がいたのだが、どうやら風邪をひいたらしく中止となった。病気じゃ無理を言うわけにもいかないので仕方ない。お大事にと伝え、余計な荷物を置いて外へと繰り出す。
目的地は上野公園と寛永寺だ。以前足を運んだ事もあるが、今回は戦記の弐拾参話に向けて、同じルートを通ってみようと思い、駅前から公園内を通って寛永寺へと向かった。夏場だけあって暑い。途中、風景をデジカメに収めながら歩く。歩いている内に思い付いたネタもあるし、実りのある散策だった。ただ……前に来た時も思ったけど、やっぱり狭いんだよねぇ寛永寺の境内。少数精鋭ならともかく、フルメンバー集合したら、敵の数と合わせると身動き取れないって絶対。
その後は適当にアメ横を彷徨く。適当にメシを食い、適当に飲んでホテルへと戻り、TVで天気を確認……雨っすか……午前はともかく、昼過ぎからは結構ヤバイかも。一抹の不安を抱えつつ、明日に備えて寝る事にした。
翌日8月30日。
今回の旅のメイン、日光行きである。起床したのは5時過ぎ。準備をしてチェックアウトし、上野駅に向かう。そこから浅草駅へ。後は東武鉄道で東武日光駅まで快速で一直線だ。乗り継ぎしなくていいしJR経由より安い。
東武日光駅からはバスで行くことになる。歩いてもいいが、それは時間に余裕がある場合だ。今回のように時間が限られている時にはさすがに俺でもバスを使う……乗るバスをちょっと間違えたけど……(汗)とにかく、日光山内に到着。
とその前に。日光山内というのは日光東照宮、二荒山神社、日光山輪王寺、つまり二社一寺の領域のことだ。昔は日光山と総称されていたらしいのが今も続いていてそう呼ばれる。寺と神社に分けられたのは明治頃の神仏分離令のためだそうな。
と、まずは日光山輪王寺からである。間違えて乗ったバスが着いたのは輪王寺敷地の南東付近。裏口の方らしい。まあ、入れればいいんだけども。日光山の開祖と言われる勝道上人の像が出迎えてくれた。ところで輪王寺と名があるが、実際にそういう名の寺はないそうで。日光山内にある仏教的な建造物などを総称してそう呼ぶらしい。
とりあえず受付所で共通拝観券を買う。1000円である。これがないと日光山内の幾つかの場所には入れないのだ。そのくらいサービスしてくれても良さそうなものであるが、観光地故か……。敷地に足を踏み入れると空からポツポツと冷たいものが落ちてきた。本降りではないが濡れるのはいただけないので走って三仏堂へ向かう。
三仏堂なんて名前から分かる通り、ここには三体の仏像が安置されている。阿弥陀如来と千手観音、馬頭観音の三仏だ。8メートルの姿はなかなかに迫力がある。仏像に迫力というのも変な話だけど。基本的に仏像って優しい顔をしてるからな。まあ、不動明王とか例外はいくつもあるか。
本尊を堪能した後は外へ出て大護摩堂へ。護摩堂……まあ、祈願所みたいなものだ。その名の通り護摩を焚く所である。1997年に完成したらしい。ほんのつい最近だ。祀っている本尊は不動明王。怖い顔の仏像の代名詞である(いや、他にもいるけどさ)。これはこの護摩堂を建立中に発見されたもので、平安時代のものだとか。彼を筆頭に他の明王の像が並び、五大明王勢揃いだ。ちなみに、他の明王というのは降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉の四体である。ここには他にも七福神の像などがあり、見応えがあった。
護摩堂を出て表参道の方へ歩くと、左手に塔が見える。相輪とう(とうは木に棠と書く)という名前で青銅製の供養塔。周囲に四本の小さな柱があり、中央の高い塔に繋がって支えている変わった形。塔には1000部の経典が収納されているらしい。外から見る限りではそんなに入っているようには見えないけど。余談だがこれ、天海大僧正が建てたらしい。東照宮の鬼門除けとして、だそうだが……鬼門って艮の方角だしょ? 東照宮本殿の方向を考えると鬼門じゃないよ、この場所は。あ、でも輪王寺本坊の位置からだと合ってるのか。うーん、奇妙な話だ。東照宮の鬼門除けというのが間違いなのかな? 教えて天海大僧正。
表参道に出てそのまま道を北に上がると日光東照宮だ。途中、日光東照宮美術館の案内板を見つけた。何やら色々展示しているようだが、残念な事に時間がない。諦めて先へと進む。刀剣類、観たかったのになぁ。
一の鳥居をくぐり、進むとまずは表門が目に入る。両脇にはお約束で阿吽の仁王が立っていた。それ程派手ではない、といっても細かい彫刻が施されていてかなり豪華な門である。色々な動物の彫り物、その中には麒麟とか獏とか霊獣の姿も見える。
大変な労力だったろうにと思いつつその門をくぐると正面に建物。三神庫とかいうもので、向かって右手が下神庫、正面が中神庫、正面左が上神庫と呼ばれているらしい。例祭の道具などを収納する倉庫だとか。中神庫は修復作業中だったが。しかしたかが倉庫のはずなのにこの壮麗さはどうだろう。
寺社というのはもっとこう、例え建造物が大きかったり敷地が広かったりしても、落ち着いた雰囲気であると信じていた俺にしてみれば、何かが違うような気がしてならない。東照宮がここまで派手になったのは確か三代将軍家光が手を加えたからだったはずだが、いくら家康を敬愛していたからと言ってこれはないだろう。遺言によると小さなお堂を建ててくれ、くらいだったそうだから行き過ぎの感がある。
気を取り直して進む。色鮮やかな五重塔が目に入ったが、それより先に神厩舎を見た。表門の左手にある建物で、神馬を繋いでおく厩舎のことだ。もちろん今は実際に馬が繋がれているわけではない。比較的シンプルな建物だが、ここにはあの有名な三猿がいた。「見ざる・言わざる・聞かざる」のアレだ。どうしてここに、と思ったりしたが、後日調べてみたところ、猿は馬の病気や災難除けにいいと信じられていたからだそうな。もちろんデジカメに収めた。
さて、奥へ進もうかと思ったその時。背後から大きな声が聞こえた。
「ビタミンビンビン、デカ○タ――」
「「「「「C〜っ!」」」」」
何事かと思って振り向くと、記念撮影の陣形をとっている小学生ズの姿。ふーん、関東の方って撮影の時、こう言うのかと妙なことで感心。お約束は「1+1は2〜」だと思うのだが奥が深い。さらにもう一組の撮影の時は「元気ハツラツオ□ナミンC」だったことを追加しておく。
五重塔はざっと眺めるだけに留め、そのまま奥へと向かう。目に映ったのは東照宮のシンボルとも言うべき陽明門。とにかく豪奢。彫刻などの精緻さも半端ではない。さぞかし手間と金と時間をかけたのだろうなと感心すると同時に溜息が漏れた。でもやっぱり、寺のイメージじゃないような気がするのだが……。
再度、気を取り直して門をくぐった。正面には拝殿・本殿があるが、メインは後のお楽しみということで脇に逸れることにする。東側にある東回廊。奥社へと続く坂下門があるのだが、ここに人がたかっていたからだ。みんなして上を見上げている。建造物自体はここも豪華な彫刻が施されていたりするのだが、ここには猫の彫り物があった。これは国宝でもある「眠り猫」というものらしい。東照宮の数ある彫刻の中でももっとも有名、と『上○の旅』には記してあるのだが……これの存在を初めて知ったよ、俺。眠り猫よりも三猿の方が印象深いじゃないか。俺、おかしい?
ともかく坂下門をくぐって奥社へと向かう。石畳の敷かれた参道を歩き、階段を上って行くと、建造物が見えてきた。こんな場所にあるのに、やはり派手、に見える。まあ、東照宮に関してはそれが普通なんだと割り切る事にした。
で、そこをもう少し奥へ行くと、家康公の墓がある。宝塔と呼ばれるもので、見た目は鐘に屋根をつけたような形。当然の事ながら、墓らしく見えない。一体、どういう構造なんだか。
墓参りはそこそこに、下に降りて今度はメインの拝殿・本殿へ。本殿自体は非公開なので、外から少し眺める事しかできないが、拝殿には入れた。中は他の建物と同じで(以下略)広々としていた。かなり広い。百畳くらいはあるかも知れない(後日、資料を見たら九十九畳だった)。
ここで一つ大きな失敗をした。周囲に目を奪われて、天井を見るのを忘れていたのである。ここの天井には、狩野探幽らが描いた百頭の竜の絵があったらしいのだ……見たかったなぁ……
東照宮のメインを終え、次へ向かおうと陽明門を出た時、ふと右側を見ると、ある建物が目についた。日光山に入った時にもらった参拝図を見ると、薬師堂があるらしい。で、目に入ったのが「鳴龍」の文字。気になったので行ってみた。
薬師堂の名から容易に想像できる通り、ここには薬師如来が祀ってある。その取り巻きである十二神将も一緒だ。薬師十二神将であって、間違っても式神の十二神将ではない。
順路に従い歩いていると、薬師堂の中心部あたりで係員の人に止められる。人数がある程度揃ったところで説明が始まった。まず、天井を見る。そこには大きな龍がいた。
「あ、黄龍だ」
と、思える金色の大きな龍が天井に描かれていたのだ。これが「鳴龍」らしい。で、どうしてそう呼ばれるのかというと、この龍の下で拍子木を鳴らすと、まるで龍が鳴いているように聞こえるのだという。当然の事ながら龍の鳴き声なんて聞いた事もないので、どのように聞こえるのかチョット期待したのですが。
随分と甲高いお声でした。ぎゃおーでも、きしゃーでもなく、きぃぃぃん、と響くような音。これ、龍の真下でないとこう聞こえないそうで。それはそれで聞いてみたかったような気もするけど。
東照宮の表門を出て、石灯籠が並ぶ道をまっすぐ進み、次に向かったのは二荒山神社。東照宮からはおおむね西方向に位置する。ここは、日光山の開祖、勝道上人が建造したらしい。資料を見てみると平安時代頃。で、江戸時代に入って本社社殿が二代将軍秀忠の頃に造営された、と。これが日光最古の建物だそうな。
で、ここの特徴というか。とにかく木が多い。それも老木、巨木と呼べそうなものが。家康の墓所にも叶杉というのがあった。まあ、途中で折れてたけど、あれが樹齢600年だったか。
御神木も多い。名前も親子杉、夫婦杉、三本杉など、名前からもその姿が想像できそうな木だった。この場合は、名は体を表す、だろうか? ちなみにここの御神木で最大なのが、樹齢約700年。太さ約6.35m、高さ約60メートル。うん、さすがにでかかった。
ここでは建物よりも木の方に目がいってしまった。もちろん、それ以外の物も見たけど。
その一つが化燈籠と呼ばれる物。本殿の横にある燈籠で、金属製。何でこのような名が付いているのかというと、これに夜更けに火を灯したら、明かりがゆらゆら揺れて怪しげな姿に見えたとかで。まあ、それだけならいいんだけれども、当時、警護の武士達がこれを怪物と見間違えて斬りつけた、という話があるそうな。よく見るとなるほど、確かにたくさん傷があるけれど……刀っていうのは意外と切れ味がないのだろうか。小さな傷ばかりだ。腕がへっぽこだったのか、燈籠が見た目以上に硬かったのか。私的には、怯えながら斬ったので腰が入らなかったというのに一票入れたい。
お次は大国殿。主祭神は大己貴命(という神さまを祀ってある。別名大国主命というらしく、大国がだいこくと読めることから、大黒様と同一視されて福の神として祀られているとか。建物自体が重要文化財らしいけど、それより目に付いたのは建物内にあった刀。宝刀太郎丸。全長2.62m。刃が1.8m。重量7.2kgと化け物サイズ。斬馬刀ってやつ……いや、祭祀用だろうか? まあ、とにかくまともな人間に扱える刀ではないけど、迫力はあった。
二荒山神社を後にして、今度は輪王寺大猷院(。二荒山神社から西南西辺りにある。ここは三代将軍家光を祀った場所だ。規模的には小さそうだが、階段を見るになかなか歩き応えがありそうである。
調べによると、家光が遺言で言ったそうだ。東照宮に勝ることのないように、と。家康を崇拝していたらしいからその辺、色々と気にしていたのだろうか。の割には、遺言に反して東照宮をド派手に変えたりしているのだが。
ともかくここは、門が多い。まず最初にくぐるのは二天門。ここで言う二天とは、広目天と持国天だ。これは四天王の内の二天である。これが門の左右に控えていた。ここで残りの二天が門の裏側にいるのだろうかと思ったのだが、それなら二天門じゃなくて四天門でいいような気がする。はたして裏側を見ると、そこにいたのは風神と雷神。なんでさ。
その先に進むと、鐘楼と鼓楼の背後に次の門。名は夜叉門。てことは夜叉がいるんだろう。ここも門の左右、表と裏で計四体の色鮮やかな像が立っていた。正面左の赤いのが毘陀羅(、右の緑のが阿跋摩羅(、背面の左の青いのが烏摩勒伽(、右の白いのがけん陀羅(けんの字は午に建と書く)というらしいが……聞いたこと無いなぁ……駄目じゃん俺(汗)夜叉と言うだけあって、悪そうな――否、恐い顔をしておりました。
で、その先は唐門。今までで一番小さな門だが、装飾がすごい。東照宮の建築物に勝るとも劣らない、と感じた。白い龍が妙に意識に残る。
拝殿・本殿を見てから、最後に皇嘉門(を見学。ここも小さな門だが、今までの門とは趣が違う。中国風の、言うなれば竜宮城のようなやつ。で、やっぱり竜宮門とも呼ばれているらしい。この門の先には奥の院があり、家光公が祀られているそうなのだが、非公開なので行くことはできなかった。一般公開したこともあったそうなのだが、その時に来られなかったのだから仕方ない。
大猷院(を後にする。まあ規模こそ劣るものの、人それぞれの見方次第だろうけど、細工や装飾は東照宮に匹敵してるような……さて、遺言まで残した家光は、これを見たらどう思うのだろうか。
さて、時間もいい頃になってきた。と同時に腹も減ってきた。そろそろ昼飯にしようかと、日光山内を外に向かいながら店を探す。さすがに観光客相手の大きな構えの店はあるが、そういう所はたいてい予約で埋まっているのが常。ならば小さな個人向けのお店を探そうと少し歩いてみる。
適当な所で蕎麦屋を見付けた。ウィンドウを見ていると、ふと目に付く品物が。
「ゆばそば、ねぇ」
日光といえばゆばらしい。そういえば京都は「湯葉」らしいがこっちは「湯波」なのだそうだ。違いは作る時の手間というか。引き上げる時に一枚にするか二つ折りにするか。つまり厚みが違うって事でオッケーなのだろうか? ものは試し、ということで食べてみることにした。
結局、蕎麦が湯波でできている訳ではなく、蕎麦にゆばが乗ったものだったわけだが……食わなきゃ良かった、と思っても後の祭りで。
いや、湯波自体は別にいいんです。面白い食感だなぁ、という感想はありましたし。味は……蕎麦のつゆが強すぎてよく分かりませんでした。しかし肝心の蕎麦は、手打ちらしいのですが細さが定まっておらず、太いのが混じってたり、コシが無かったりと散々……普通、手打ちってのはうまいもんじゃないのだろうか。別に食通を気取るつもりはないが、蕎麦好きな俺としては「普通」ですらなかったここの蕎麦はミトメタクナイ。ミトメタクナーイ!(笑)
何だか損した気分で店を出る。気を取り直して次へ向かおう。
バスに乗り、曲がりくねった路を行く。着いたのは中禅寺湖。その背後に男体山――と言いたいが、天気が悪くてよく見えなかったのが残念だ。
二荒山神社中宮祠の前辺りで下車。ここの名前も二荒山神社。中宮祠とあるが、ここは日光山内の二荒山神社の中宮ということになるらしい。で、男体山には奥宮がある、と。随分とスケールがでかい。
男体山は修験道に縁のある場所で、中禅寺湖の周辺一帯が山岳信仰の地として開けたそうだ。昔は女人馬牛禁制だったとか。
それはともかく中宮祠を散策。男体山へ登るにはここを通るようになっているようだ。登ってみたい気もしたが、さすがに時間がないので諦めた。その代わりと言っては何だが宝物館を見学。ここには男体山から発掘された出土品などが置いてあった。古くは奈良時代末期の頃の物だ。山岳信仰の地ということで、そのテの品が多く見られた。他にも社宝の太刀も展示されていた。銘は祢々切丸。全長3.4m、刃が2.2m、重量は22.5kg……日光の二荒山神社で見た太郎丸よりも大きな太刀だ。ここまで来ると完全に祭祀用である。こんなモン使える奴がいるとしたら、きっとガ○ツくらいだろう(笑)
あらかた見終わったので、歩く。バスの時間が合わなかったし、そうたいした距離でもなかったし。歩くのは苦にならないから問題ない。次の目的地は日光華厳の滝。実は昔から行ってみたいと思っていた場所なのだ。魔人絡み、という思いも今ではあるけど。
ところが、である。歩くにつれ、視界が悪くなり始めた。霧が出てきたのだ。この時は「あ、霧が出てきたなー」と霧が好きな俺は気にせず歩いていたわけだが。さて、ようやっと滝に到着という段になって、霧を呪った。つまり、だ。霧のせいで華厳の滝は見ることができなくなっていたのだ。滝の音だけが空しく響く。その姿は霧という壁に阻まれて確認できず。せっかくここまで来てこんなオチかい……
嘆いたところで自然現象をどうこうできる訳がなく。少し待ってみたが晴れる様子がなかったので諦めた。バスに乗って日光駅へ。
天気は悪いまま。おまけにちょっとスケジュールがずれた。時刻表とにらめっこしてみると、どうやら宿への到着が予定より遅れそうである。宿に電話をしてその旨を伝え、電車に乗った。
JR黒磯駅で下車して那須温泉行きのバスに乗り、那須湯本で下車。既に日は落ち周囲は暗い。僅かに硫黄臭が漂い、温泉地に来たんだなということを再認識する。
歩いてすぐの旅館にチェックイン。二階の部屋に案内された。本来二人用の部屋だから、独り身には広い。でも、この方がのんびりできるのでよし。荷物を置いて畳に寝転がる。あー……このままだと眠ってしまいそうだ……
くつろいでいる内に食事が用意された。うーん、思っていたよりも豪勢だな。味も……うん、なかなかだ。日光では散々だった湯波も出てきた。まあ一品ものなので量はなかったが、わさび醤油で食すとこれがまた。うん、うまい。
二食温泉付きで一泊一万円ちょい……うん、これは当たりですな。
お腹がふくれたところでひとっ風呂浴びることにした。浴衣を着て温泉に向かう。この宿の温泉は、ここから上の方にある元湯から引いているそうで。かなり歴史のある温泉らしいので、明日直接そちらにも行ってみよう。
俺が行った時には誰もいなかった。うん、貸し切り状態ってやつですな。岩風呂風の造りになっていてなかなか。
しかしどうして温泉ってのは気が落ち着くんだろう? そういう成分があるなんて話も聞いたことがあるが、それじゃ泉質が違ったら感じ方も違うんだろうか? それとももっと違う何か――ま、いいか。深く考えず、感じ取ったままにまったりのんびりすればいいんだから。
浸かっている内におっさんが一人入ってきた。こうなるともう貸し切り気分には浸れないのだが、こうなったらこうなったで別の楽しみがあったりする。見知らぬ人とのトークである。同年代よりは、こういうおっさんとかの方が話しやすいし、二言三言話したら大抵向こうがお喋りモードになるので面白い話が聞けるのだ。
そのおっさんは温泉大好きオヤジらしく。日本中、色々な温泉を渡り歩いているのだそうだ。やれあそこの温泉地は駄目だったとか、どこどこはよかったとか。どこどこの効能はあーだこーだとか。某所は実はもう枯れているらしいとか。安い宿もいいが、やっぱり高い宿はそれ相応のもてなしがあり、とても気の利いたサービスで何の気兼ねなくくつろげるので良い、とか色々な話を聞かせてもらった。しかし俺の感覚じゃ、五万も六万もする温泉宿には泊まれないな……少なくとも自分の金では(笑)
浸かったままではのぼせるので、いいところで上がって、脱衣所でしばらく話をした。おっさんはその後でまた入ったが、俺は部屋に戻ることにする。あ……コーヒー牛乳があれば最高だったんだけどなぁ(笑)途中、ロビーで遭遇した親子連れと少し話をして、部屋に戻ると布団が敷いてあったのでそのまま就寝。うん、いい一日だった。
翌日8月31日。
起床して朝風呂を浴びに行く。宿によっては入浴時間が指定されてるが、ここは問題なかったのでよし。今度は完全貸し切り状態。途中で入ってくる人もない。早朝は穴場かも知れない。
朝食を食べて一息ついたらチェックアウト。さあ、最終日だ。
まずは坂道を上り、向かったのは那須温泉神社。那須温泉発祥の地、というか温泉の場所を教えてくれた神「ゆぜんさま」とやらを祀っている神社。奈良時代の話らしいから、由緒正しい古社ということになろうか。ちなみにここは、その名からも連想できる那須与一に縁があるらしい。彼が扇を射抜く話があるが、あの時に祈願したのがここだという。那須与一ってこっちの方の出身だったんだろうか?
神社から山道を通って次へと向かう。本当なら一度戻って正面から行けば良かったのだが、また「土の上を歩きたい病」が出たので仕方がない。
山道を歩いていくと僅かに空気の臭いが変わった。温泉街にもあった、独特の臭い。そして行く先、左手に、大きく崩れたような山の斜面が見えた。
ここは殺生石。魔人ファンならアイテムの欄にこの名を見たことがあるだろう。つまりここは、あの九尾伝説ゆかりの地なのである。詳しい説明は避けるが、簡単に言うとこんな感じ。
京都で悪さをした九尾の狐は、正体がばれてこの地へと逃げ込んだ訳だが、それも見つかってしまって退治された。その身体は石となり、周囲に毒気を撒き散らしたという。それを源翁という坊さんがやって来て砕いた結果、毒気は消え失せた、というもの。
興味があるなら「九尾の狐」のワードで検索してみればいい。もっと詳しい伝説が簡単に引っかかる。それと源翁という坊さんの名が、道具の玄翁の語源だとか。真偽の程は定かじゃないが、毒を吐く石を砕いた坊さんの名が石を砕く道具の名になるのも当然といえば当然かも。
それと、砕かれた石の破片はどこへともなく飛んでいったという。その一つが我が地元、岡山県に飛んできたとかで、県内の神社にあるそうで。ただ、地面に埋まっているらしいので、見ることはできないようですが。
まあ、話を現実に戻して殺生石を見た。見たのだが――
「い、一体、どれなのん?」
と、途方に暮れる冒険者が一人(笑)
柵が設けられ、その向こうに斜面と石があるのだが。ええ、石があるんですよ。たくさん、ね……どれがその曰く付きの殺生石なのか……分からないんですわ。近くの説明板にも記載されていないし。柵を乗り越えたい気分ではあったが、硫化水素ガスが出ているらしく。無謀な真似はできないし。
仕方なく写真を数枚撮るだけにして、入口の方へと歩く。この辺は岩や石がごろごろしていて何というか不気味な雰囲気が漂う。昔は無限地獄といわれる程の場所だったとかで。つまりは亜硫酸ガスや炭酸ガスが噴き出す場所だったのだ。今でこそその面影を留めるだけだが、さぞすごかったのだろう。九尾の伝説になるのも分かる。
冷静な目で見れば、九尾の毒ってのは火山ガスであり、土地の景観と合わせて九尾伝説に結びつけただけなのだろうが……それがどうした。それじゃ、面白くないじゃないか。ロマンがない(笑)
他にも伝承があったり、千体の地蔵があったり、賽の河原と呼ばれていたりと、この土地は面白い場所だった。
そこからまた徒歩で、この土地の最終目的地へと向かう。昨日泊まった宿にあった温泉、そこの源だ。元湯鹿の湯の名で呼ばれるそこは、那須最古の共同浴場で、その歴史は1300年以上だとかで。名前に鹿とあるように、手負いの鹿が温泉で傷を治したという伝説に由来するとか。
ここの建物は木造で、周囲に目立つ建築物もない。ホントひなびた温泉って雰囲気。昔から変わってないんだろうなと思わせる何かがあった。
中に入ってお金を払い、荷物はロッカーに預けていざ浴殿へ。
何というか、面白い造りで。足下は板場で、いくつもの浴槽がある。どうやら、それぞれ湯温が違うようだ。しっかし人が多いこと。芋洗い場、とかいう表現が何かにあったが、そんな感じ。のんびりってわけにはいかない。それに時間の関係もあるし。ゆっくりできなかったが、それでも一番熱い湯以外は入ってみた。まあ、この辺が俺の限界だろう。
後はもう帰るのみ。バスで黒磯駅へ、そこから東京まで出て新幹線。特にイベントらしいものもなく、まっすぐ岡山へ帰った。
まあ顧みるといくらか失敗もしたなぁと思う。龍の絵を見逃したし、まずい蕎麦を食ったし……華厳の滝は見ることができなかったし。
それでもトータルで見れば楽しかったことに間違いはなく、心に残った旅だった。
さて、次はどこへ行こう?
今回の装備。
頭:帽子。
身体:服。
手:腕時計。
足:運動靴。
携行品
携帯電話
傘
リュック:上撰の旅:日光・那須・栃木、着替え一式×二日分、携帯用充電器、MD用アダプタ、MD用充電器、デジカメ用充電器。
ポーチ:MDウォークマン、MD×3、予備電池(単三×2本)、筆記用具、タオル、デジカメ、デジカメ用メモリーカード。
旅費・買い物等総計:62,667円。
入手品(持ち帰ったもの):日光チーズケーキ(仕事場への土産)