ほんとの事をいうと.....
延長13kmにも及ぶこの工事は貞享3年(1686年)に完成したといわれています。1654年の大洪水から32年後の事でした。この放水路は普段は水が流れず水田として利用されていましたが、洪水で旭川の水かさが一定の高さまで増すと、水は一の荒手を超えて百間川に入り、二の荒手、三の荒手の間で流れを整え下流へ流れていきました。この二の荒手の幅が100間(約180m)あったことから、百間川(ひゃっけんがわ)と呼ばれるようになりました。現在でも堰堤(えんてい)の石積みが残っています。
藩主池田光政は閑谷学校(しずたにがっこう)を創建し多くの若者達を育成して名君の誉れ高く、津田永忠は他にも多くの新田を開発して領民を豊かにし、後楽園(日本三名園の一つ:岡山城のすぐ北側にある。)も造成しました。実は水路の断面の形状は、ここで考えたようなものではありませんでした。しかし水の流れを考慮して堰堤を築く設計技術、測量技術、施工技術に驚くような知識をもっていたそうです。大型の建設機械がなかったころにこのような大がかりな土木工事を成し遂げた先人達の知恵と勇気と努力とを深く誇りに思います。