『イヤ…やめろ…はなせ』
『今更、止められる訳無いだろ。諦めて、足開けよ!!』
『やっ…やめろ…』
『おとなしくしていれば、天国を見せてやるよ』
『俺にさわるな…はなせ……いやぁ……』
男達の視線と言葉に、恐怖のあまりに動けなくなる。
絡み付く男達の手。
衣類を剥ぎ取ろうとする手に抵抗すれば、頬を叩かれ腕を縛られる。
嫌悪感や苦痛に恐怖が、自分の身体と感情を支配する。
極度の恐怖に悲鳴さえ出せない。
男達の玩具にされる心と身体。
涙で霞む視界、そして、自分の声に思えない悲鳴に………
……リョーマは意識の覚醒を促された。
「ゆ……夢?違う、今は夢でも、あれは夢じゃない………」
今見た夢に身体が振るえ出す。
夢は夢でも現実で体験した恐怖……振り払えない恐怖、無意識に涙が零れ落ちる。
「ほぁら」
膝を抱え俯けば、指先に同じベッドで寝ていたカルピンが擦り寄って来た。
「カルピン……」
振るえる手でリョーマは、自分の不安を振り払うかの様にカルピンを抱き寄せる。
一時の安らぎを求めて、リョーマはカルピンを抱き締めていれば、時間を知らせる短いアラーム音が鳴り響いた。
「4時か……結局3時間程しか寝てない……2度寝したら、遅刻決定」
寝不足なのは当然だが、寝たら又夢を見るそうな恐怖に、リョーマはベッドから出ると朝の身支度を始めた。
「大石、おはよう」
「おっ、本日の一番入りは、不二と乾か」
朝練の鍵当番の大石が部室に到着した時には、同じレギュラー部員の二人が立っていた。
「残念だけど、俺達より早く来ている奴がもう一人いる。遅刻の常習犯…越前リョーマがな」
乾が指さした先には、一人でひたすら壁討ちをしている越前リョーマがいた。
「俺達二人が来たのが5時15分。その時既に越前は汗ビッショリだった。あの様子から推測して、4時半前後から一人で壁打ちをやっていたようだ」
「初の快挙だな。遅刻常習犯の越前が、大石より早く来ているとは」
「おはよう。手塚」
大石に続き到着したレギュラーが、各々にコメントを洩らす。
「雨降りじゃなくて、季節はずれの霰が降るかもにゃ。でも、おちびの様子少し変じゃない?」
「確かに彼らしくないね。打ち返しのミスをするなんて」
「ミスは目立つが、周りの雑音や声は越前の耳に届いていない様だな」
万全の状態であれば、たった一つのボールで、何十回・何百回と続く筈の壁打ちが、他愛ない返球ミスで遮断されていた。
「彼は自主練という事で、今は様子を見た方が良いんじゃないかな。それとも、一度喝入れて、グランド10周程走らせる?」
強打により方向性を失い、足元に転がってきたボールを拾い上げ、不二は手塚に問うた。
「今の状態で、走らせても怪我の原因を作るだけだろう」
百害あって一利なしの現状に、手塚はそれ以上の言葉を口にしなかった。
「おちび、ずっと壁打ちをやっていたのか?」
「約3時間半ブッ続けだ」
こまめにリョーマの様子を観察していた乾が現状を答えた。
「おちび、早く着替えないと授業に遅れるぞ」
数度目の返球ミスで一区切りついたリョーマに、菊丸は素っ気ない態度で後ろから抱き付いた。
菊丸にとっては、只のスキンシップだったが、リョーマの表情が凍り付く。
「やっ!」
突然の言葉でリョーマに弾き飛ばされた菊丸も、反射的に身を翻して難なく着地するが、リョーマの過剰な反応に呆気にとられ、一瞬言葉を失った。
「おちび?」
「さ…わるな!!」
リョーマの動きは驚きからと言うより、殆ど反射的な恐怖心から出た行動だった。
安定した心理状態の時ならともかく、不安定な心理下での突然のスキンシップは慣れていない。
防衛本能が働き無意識に、菊丸の腕から逃れる行動に出いた。
絞り出された、リョーマの声が震えていた。
「おちび?」
「越前?」
予想もしなかった反応に、その場にいた全員が驚きを隠せず、数人の視線を浴びたリョーマは、表情を隠しその場から走り出した。
リョーマを見つめていた全員が、何か言いたげな表情をしていたが、結局、誰一人何も言わぬまま口を閉ざしていた。
一限目を知らせる予鈴のチャイムがコート内に鳴り響く。
そして、時間が過ぎて放課後。
「全員ウォーミングアップが終わり次第練習開始。1年は素振りが終わった者からボール拾いに入れ。2年3年はB・Cコートへ、レギュラーは試合形式で、第一試合不二VS越前、第二試合菊丸VS海堂、第三試合大石VS河村。俺は竜崎先生の所にいる。大石、何かあった時は連絡を頼む」
手塚は必要な指示を出すと、全権を大石に任せてコートから姿を消した。
「大石、手塚の奴、竜崎先生に何の用があるにゃ」
「明日からの練習試合と夏の強化合宿の打ち合わせだそうだ。それと、今朝の越前の事でに相談事があるらしい」
「恒例の海辺強化合宿…何だか荒れ模様になりそうな気がするにゃ」
朝のリョーマの反応に菊丸は溜め息を洩らし、手塚が向かった校舎を見上げた。
「越前の様子が変だな。動きに張りが無いというか。勢いが足りないって感じで足取りも重そうだ…」
「何時もだったら、取られたポイントは取り返しに行くのに、今回は不二に引き離されてるし」
『チェンジコート』
リョーマらしくないプレイに、疑問と不安を感じながら不二は、すれ違いの際に足を止めた。
「大丈夫かい?プレイに乱れがあるよ。君らしくないミスだってあるし」
「…………」
「越前?」
不自然なプレーに忠告を促せば、不二の目の前でリョーマの身体が大きく揺れる。
「おっと、大丈夫かい?」
前のめりに倒れそうになるリョーマを、不二は瞬時に抱き支えた。
「大丈夫スよ。軽い目眩がしただけですから」
「今日の君を見ていると、とても大丈夫そうには見えないよ。少し、休んだ方が…」
身体を屈めて顔を覗き込めば、リョーマの表情から血の気が引いていく。
「越前?」
不二に支えられたリョーマの肩は、小刻みに震えていた。そして、ラケットを握る腕は、一面鳥肌が立っている。
「……うっ……」
呻く様な息遣いと同時に大きく波打つ双肩。
次の瞬間、手から滑り落ちたラケットが、カランと音を響かせコートに転がった。
不二が不吉な物を感じて、リョーマの双肩を支え直せば、血の気を失い青冷める表情が見える。
口元を押さえて震える指先。
その姿に驚いた不二は、リョーマを抱き抱えて水場へと走り出した。
他の部員が騒めく中、目的の水場に到着したのとほぼ同時に、リョーマは胃の中身を吐き出した。
現状を目撃した皆が目を疑った。
それは、吐き出された内容物が胃液だけだったからだ。
「越前!!胃液だけ?」
状況に驚いて顔を上げれば、事態に駆け付けた乾達と目が合った。
「不二、無理矢理にでも水を飲ませた方が良い」
的確に状況を判断していた乾に、ペットボトルの水を差し出され、不二は乾の手から半ば奪い取る様にボトルを手に取った。
「越前、辛いだろうけど、水を飲んで」
嫌がるリョーマの口を開かせ、半ば無理矢理に二度・三度、水を流し込む。
その水が胃に届くか届かないうちに、リョーマは嘔吐の発作に襲われ数回嘔吐する。
そして、嘔吐の発作が落ち着いてもなお、震え続ける肩を服で包み込んで、不二が支え直せば、背後から伸びて来た逞しい腕が、不二の腕の中からリョーマを抱き上げる。
「…リョーマ…」
優しい呼び声に苦痛に染まっていたリョーマの瞼が震え、ゆっくり開かれる。
「…親父…」
言葉短く、目の前の人物…父・南次郎に縋り付く様に、両手を双肩に絡ませる。半瞬後、その腕の中でリョーマの意識の糸が切れた。
「越前っ!」
「心配しなさんな。張り詰めていた緊張の糸が切れただけさ。涼しい場所で休めば、すぐに意識も回復するさ」
手を振って返し南次郎は、風通しの良い木陰を選んで腰を下ろす。
「桃城は、職員室にいる竜崎先生と手塚にこの事を伝えて来てくれ。タカさん・英二・海堂は……」
手塚に現場を任された、副部長の大石が的確な指示を下した。
「う〜す。お前らも付き合え」
突然の出来事に一年トリオは状況を理解できぬまま、副部長・大石の声でコートから走り出す。
「保健室の方が良いのでは?」
「職員室に知らせに走ったんだろ。ここで待ていれば良いさ。直ぐにジャジャ馬娘達が飛んで来るからな」
大石の申し出に、南次郎は慌てた様子も無く、職員室のある校舎に視線を向けた。
※ ※
「越前にそんな過去が有ったとは」
突然の言葉に、流石の手塚も驚きを隠せなかった。
リョーマの隠された過去。
事実を知っている全員が黙秘した現実。
アメリカ在住中のリョーマを襲った事件。
小さな身体と心を深く傷付けた暴力。
「日本に戻ってから何事もなければ、こんな話をしなくて済んだんだけど。現時点でリョーマの異変と現状を知っているのは、私の従弟でリョーマを助けた亜久津仁。自傷行為後を目撃した菊丸英二と不二周助の計三人よ。リョーマ本人は平常心を装っているけど、かなり精神面のバランスが崩れてる為に、不安に押し潰されて、この数日間で少なくても二回は自傷行為をしているわよ。実際はそんなものじゃないけどね。まぁ、深さ1ミリにも満たない自傷行為よ。でなければ、あんなテニスなんか出来る訳無いわよ」
「確かにそうだろうね」
包み隠さず言葉を続けるに、竜崎も無意識に溜め息を洩らす。
「……コートで何か有ったみたいよ」
席を立ち外を眺めるの視界に、やや平常心を失った桃城の姿が入った。
「何事だ。桃城?」
職員室の窓を開けた手塚は、駆け寄ってくる桃城に騒ぎの発端を尋ねた。
「越前が不二先輩との試合の真っ最中にぶっ倒れた挙げ句に吐いたんすよ。そこへ、越前の親父さんが来て、そのまま木陰で休んでます」
その言葉に、その場にいた全員の表情が驚愕に染まった。
「兎に角、テニスコートへ行ってみますか」
その場に同席していたの母親の声に、職員室を後にした。
「南次郎さん…どうして此処に?」
「倫子が渡米してからリョーマの様子が不自然だったから。心配になって様子を見に来てみればこの有様だ」
腕に抱いたリョーマの前髪を、南次郎は指先で優しく掻き上げる。
「……ぅっ……」
不意にリョーマが身動いだ。
「目が覚めたようだな。気分はどうだ?馬鹿息子」
「親父?………俺……倒れたんだ………」
「あれ程無理は厳禁だって言っただろうが」
項垂れるリョーマを抱き締め、その背中を優しく撫で下ろす。
「から事の経緯は聞いた。俺には立ち入る資格はないから何も聞かない」
断固して腕の力を緩めない南次郎に抱えられたリョーマは、手塚の耳打ちの言葉に身体を震わせる。
「部長…」
背けたい感情を隠してリョーマは気丈に顔を上げ、手塚と視線を合わせた。
「明日・明後日の部活は休んで構わないからな。今は無理をするな」
眼差しと言葉の優しさにリョーマは、心持ち気持ちを落ち着かせ素直に頷いた。
終 話
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