∬ 心と身体の傷跡 ∬

 手首を伝い流れ落ちたモノが、冷たいコンクリートを真っ赤に染めた。
 それを認識した瞬間、鈍い痛みが脳を刺激する。
 また、やってしまった。親父に何度も『やめろ』と言われた行為。
 心の不安をコントロール出来なくなると、無意識に刃物で己を傷つけてしまう『自傷行為』。
 深さ1ミリにも満たない切り傷。『これで何度目だろうか?』少なくとも、日本に戻って2度目の行為。
 1度目の『自傷行為』はアメリカで生活していた時だった。
 自分の身に起きた現実から逃げたくて、自分を傷つけた。
 その時の傷もまだ薄く残っている。
 思考回路が冷静さを取り戻せば、心が後悔の波に襲われる。同時に、傷の痛みも激しさを増した。
「痛っ」
 視界が歪み足腰から力が抜けて、手首を押さえて座り込む。
「あれ、おちびちゃん、こんな所でどうしたにゃ?」
 突然の声に顔を上げれば、見慣れた顔が目の前にあった。
「菊丸先輩?」
「おちび、気分が悪いの?」
 心配気な表情を向けてくる菊丸に、リョーマは痛む手首を押さえ視線を逸らした。そして、自分の現状を知られたくなくて、その場から逃げ出した。
「おい」
 リョーマの反応に驚き、コンクリート上の血痕と刃物を目にした菊丸の表情が青ざめる。
「不二、おちびを引き止めろ!」
 平常温厚な菊丸も、目の前の現状は反射的に叫んだ。
 菊丸と共に屋上へ上がった不二も突然の声に驚き、出口を目指して走り抜けるリョーマの腕を掴んだ。
「は…放して…不二先輩!放してよ!!」
 無我夢中で逃れようとリョーマは叫んだ。
 そんなリョーマを目の前にした 不二は、何かに怯える様なリョーマを力強く腕の中に抱き締めた。
「英二、越前を引き止めたけど、どうかしたの?」
「床」
 菊丸から返された言葉に、不二は示された場所に目を向けた。
「……えっ」
 思いもせぬ現状を目にして心配しない者なんていない。数滴の血痕と刃物に驚いた不二は、反射的に腕の中のリョーマを見下ろした。
「怪我をしているの?」
 俯いて視線を逸らすリョーマに、不二は優しく問いかける。
 問いかけられた瞬間、リョーマの双肩がびくりと震え上がる。
「怒らないから顔を上げてよ」
 怯えて震える身体を優しく撫でて、リョーマの左手を取った。
「いやっ……見ないでっ」
 弱い心を知られたくない一心で不二の手を振り払い、リョーマは必死に手首の傷を隠そうとする。
「暴れたら、血で制服が汚れるよ」
  そんな言葉に、リョーマの抵抗が止まる。
 血痕の量からしてかすり傷だとしても、不自然に服が汚れれば誰でも問いたくなる。
 例え、リョーマが転んで出来た傷だと言っても、目の前の現状を目にすれば、誰もが嘘だと勘付くはずと。
 不二はもう一度、優しく声をかけた。
「誰も君を問い詰めないか、顔を上げてよ」
「不二先輩……菊丸先輩」
 漸く顔を上げたリョーマの瞳には涙の粒が溜まり、今にも零れ落ちそうだった。
 いつもと変わらない菊丸と不二の笑顔に、リョーマの押さえきれなくなった感情があふれ出す。
 不二の胸を借り、声を押し殺して泣き出したリョーマに、菊丸と不二は驚いて視線を合わせた。
「つらい時は、声を出して泣いてもいいんだよ」
 不二は何度もリョーマの頭を撫でた。
 しばらくして、目をウサギ目に変えたリョーマが、恥ずかしそうに顔を上げた。
「取り乱して、ごめんなさい」
「いいよ。それより、傷の手当も必要でしょ」
 優しくリョーマを宥めて、不二はハンカチを取り出し包帯代わりに傷口に巻いていく。
 少しきつめに縛れば、リョーマの表情が苦痛に歪む。
「この事は、誰にも言わないで」
 リョーマの言葉に、不二の手が止まる。
「おちび。それは、俺たちに黙秘しろって事かよ」
 半瞬後、菊丸が複雑な気分で問い返した。
「英二、僕らに越前を問いつめる権利は無いよ。この件に関しては、今は僕たちは何も聞かないし誰にも言わない」
 問いつめたい気持ちは不二にもあったが、菊丸を引き止めて自分も黙秘する事を決め込んだ。
 長い沈黙の中で、リョーマが静かに頷いた。
「だったら、いつまでもそんな顔をしないで、いつもの君を見せてくれるよね」
 リョーマの前髪を掻き上げ、不二はその額に口づけをした。
「ふ…不二先輩!!」
 突然の行動にリョーマの顔が耳まで真っ赤に染まる。
「「その方が可愛いよ」」
 不二と菊丸は声を揃えて、極上のスマイルを返した。
「その言葉は嬉しくないっスよ」
 不二の言葉に、リョーマの表情がいつもの顔つきに戻った。
「それでこそ、おちびちゃん」
 いつものリョーマらしさに、菊丸も笑顔で抱きついた。
「く…苦しいスよ。菊丸先輩」


 大切な後輩の後ろ姿を見送れば、菊丸が心の中の疑問を口にする。
「あの傷、あれって……自傷行為だよな」
「同じ傷跡が何本か有ったから間違いないよ」
 単に刃物で切ったには不自然すぎる程、手首に刻まれた無数の傷を思い出し、二人は大きなため息をもらす。
 思い違いであって欲しいと思ったが、あの反応からすると事実だと受け止めるしかないと。
「本当に誰にも話さないのか?」
 菊丸の言葉に、不二は静かに目を閉じた。
 腕の中で震え怯えていた姿が脳裏に浮かぶ。
『この事は、誰にも言わないで』
『この事に関しては、僕たちは何も聞かないし、誰にも言わない』
 ほんの数分前に交わした約束。
「約束した以上、僕は話さない。でないと、今度は僕たちが彼を傷付けてしまう事になるからね。でも、周りが彼の異変に気付いて聞かれたら正直に答えるよ。彼自身で隠しきれないという事は、それだけ精神面が不安定になっている証拠だから」