三沢光晴。1962年6月18日生れ。埼玉県出身。185cm、110kg

 1981年3月、18歳で全日本プロレス入門。同年8月21日埼玉浦和競馬場正門特別リングの
越中詩朗戦で敗北デビュー。8戦目で初勝利。若手ながらドロップキックを得意とし、
ダイナミックな空中殺法が高く評価され、越中誌朗とはタッグを組んでもシングルで戦っても
評判がよく、全日本の前座戦線を大いに沸かせた。
そんな中、若手育成の目的で「ルー・テーズ杯争奪リーグ戦」が行われた。優勝者は
海外修行に出られることになっていたが、三沢は越中に決勝で敗れる。
しかし、この一戦の内容を高く評価したG・馬場は準優勝者の三沢も越中と共に
メキシコへ海外修行に送り出した。当時一流レスラーになる為には海外修行は絶対条件であった。
そして、三沢はそのチャンスを掴んだのである。


1st Chapter 「苦悩〜虎の時代」
 1984年3月6日、三沢は越中と共にメキシコへ渡った。メキシコで修行に明け暮れていた三沢の
もとにある日、G・馬場から電話が入る。「おまえ、コーナーの上に立つことは出来るか?」
「はい」と三沢。この返事で三沢は訳の分からぬまま、7月26日極秘帰国。そこで、
ある命令が下された。「おまえは、虎になれ」と。そして、三沢光晴はマスクを被り、
二代目タイガーマスクとなった。当時タイガーマスクといえば、先に引退した初代佐山タイガーの
強烈なインパクトとイメージがプロレスファンの間には残っていた。
2代目タイガーとなった三沢は、この偉大な初代佐山タイガーの残像と戦うことになる。
 8月26日、田園コロシアムで二代目タイガーとして日本再デビューを果たすが、試合前から
二代目"三沢"タイガーを受け入れないファンから野次罵声が飛びかった。厳しい現実を突きつけられた
虎デビューであった。そんな重圧の中、三沢タイガーは見事に勝利を果たした。その試合内容を
ファンに認められ、試合後は野次罵声を歓声に変えてみせた。その瞬間、佐山タイガーの残像にも
打ち勝ったのである。
 三沢は「二代目タイガー」としてファンに認知され、全日本プロレスのJr戦線のエースとして
活躍していた1985年当時、長州力率いるジャパン・プロレスが全日本プロレスのマットに
戦いの場を求めてきた。その中に佐山タイガーと死闘を演じた"虎ハンター"小林邦明がいた。
その小林との戦いで三沢タイガーの真価が問われる筈であったが、感情剥き出しラフ殺法で迫る
小林とは結局かみ合わずに終わる。
その後もタイトル戦線では、ライバル関係である小林との抗争が続いた。しかし、この時期の
三沢タイガーは左膝に爆弾を抱え、'85年6月21日、日本武道館で小林の保持するNWAインターJrの
ベルト奪取に失敗、G・馬場から三沢自身初の"長期欠場"を言い渡される。しかもこれは、怪我の
治療の為の単なる欠場ではなく、「これを機に真の虎となれ!」という檄であった。
ヘビー級に転向し、独自の"ヘビー級三沢タイガー"を確立するということだったのである。
怪我の治療と同時にヘビー級転向の為のハードトレーニングをG・馬場直々の指導の下で積み、
実に逞しい肉体に変貌を遂げた三沢タイガーは、小林邦明との因縁を清算すべく、
8月31日両国国技館でNWAインターJrのベルトに再挑戦し、見事これを奪取。ジュニア戦士としての
区切りをつけ、堂々とヘビー級へ転向したのである。

written by 稲妖怪
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